デッキチェアの上に見事なプロポーションを横たえていた劉瑞麗は、甘い声に呼ばれ薄く目をあけた。自然と、口の端があがるのがわかる。彼女の表情の変化を見て取ったためだろうか、雛川亜柚子の表情が尻尾をふる仔犬を思わせる笑顔に変化した。
「こんなところがあるなんて、知りませんでした」
二人がいるのは、都心にあるシティホテルの屋上にしつらえられたプールだった。あくまでもビルの屋上ということで、バラエティ豊かな水遊びの場があるわけではない。シンプルな長方形のプールがあるのみで、むしろ中心とみなすべきは周囲のテラスのほうではないかとも思われた。
少しばかり季節が早いのと、利用料、どちらがネックなのだろうか。交通の便が良い場所で、かつ、休日の昼間であるにもかかわらず、興奮した子供たちが金切り声をあげて走り回る景色はない。週末ゆえ多少なりとも利用者は増えているはずだが、とても都内とは思えない穏やかさだった。
「先生は泳ぎにならないんですか?」
私立天香学園の保健医の職を退いて久しいにもかかわらず、相変わらずの呼びかけに、瑞麗は苦笑を浮かべる。そして、水滴を蓄えた髪、頬と、順番に触れた。不思議そうな表情で自らの指先の動きを目で追う雛川のさまを見守りながら、自分はいいと首を横にふる。
「亜柚子」
行かないんですかと少ししょげた様子の雛川に、瑞麗は少し口調を強くして呼びかけた。どうしたのかと目を丸くする彼女のてのひらをぎゅっと握った。
「やはり少し季節が早かったみたいですね。――寒くはありませんか?」
こんなに冷えて、と。そう言って、瑞麗は彼女のてのひらを頬に寄せる。雛川は幾度かまばたきをする。次の瞬間、頬がピンク色に染まった。
「だ、大丈夫です! 寒くなんて」
焦った様子で手を引いた瞬間、雛川は小さくくしゃみをした。口を抑え、ええと、と。そう言って瑞麗の表情をうかがう。しばし後、小さく苦笑を浮かべた。
「……やっぱり少し冷えてたみたいです」
瑞麗は無言でふわりと傍らにおいてあったバスタオルを雛川の肩にかけた。そして、戻りましょうと言って立ち上がる。よろしいんですか? の問いには、首を横にふった。そして、ホテルの中に戻るよう、雛川を促して歩きだす。
「貴女に風邪をひかせるわけにはいきませんから」
「もう。それくらいちゃんと気をつけられます」
少しすねたような雛川の言葉に、瑞麗は笑みを深くした。そして、素早く彼女に顔を近づけると、掠めるような軽さで唇で頬に触れる。そして。
「わかっています。それでも、そうしたいんです」
静かな瑞麗の言葉に、雛川はもうと小さくつぶやくと頬を染めうつむいた。
fin.