他人が自分の思い通りに動かなかったからって怒るのは、ものすごく理不尽で不毛なことだ。それくらい知ってる。でも、今回のおれは怒ってもいいんじゃないかと思う。……多分。
路傍の石よりは、ちょっとだけいい場所にいるとは自負してた。多分、字は読めないとか、力加減が下手だとか、それくらいは他の人と見分けてくれてたはずだ。ただ、すごくあの人のことが好きで、もっとおれのこと見てほしくて、もっと一緒にいたくて、一人占めしたくてなんてのは、知らなかったんじゃないかと思う。……知らなかったって言うか、興味もなかったし、今もないんだろうな。
鋼の棘魚亭で、斡旋屋の順番待ちをしながら、おれは目の前の光景にそう考えていた。目の前って言うか、ちょっと離れた位置の大テーブルの一角には昼間っから酒飲んでるだめにんげんが二人いる。ギルドほしのすなのアルケミストと、その旧友とかいう人だ。どんな秘密の話をしてるか知らないけど、おれにはわからない言葉で笑いあってる。なんか難しい話か、それとも人の悪口か猥談か。表情や言葉からじゃさっぱりわかんないけど、きっと酒場で話すような内容じゃないにちがいない。……ていうか、顔近い。なんなんだよその表情は。ねえ、この前オヤジに営業妨害とか言われたのおぼえてる? それもそうなるんじゃないの? ホント懲りないよね、アンタ。今度もやらかしたら、またその人と弁償すんのかな。まあ、おれには関係ないけど。
前の人の用事が済み、待たせたなとオヤジさんに声をかけられ、おれははっと顔をあげた。そして、なんかひきつってる顔をほぐして、この前受けた仕事の結果を持ってきたことを告げる。早かったなぁという言葉に胸をはり、採取したものをいれた革袋をカウンターへとおいた。
鋼の棘魚亭の出禁と、ギルドをクビにされかけてるっていう、どうしようもない状態で一月。いつもよりずっと近くにいて、たくさん話をした一月だったと思う。さすがっていうべき頭の回転や知識量を、今までになくたくさん目の当たりにした。彼が考えを整理してるとこにも立ち会った。普段なら、彼のそうしてるところは、間にギルドマスターのメディックが入っているから、直接目にすることは少ない。頼りなくて物足りない相手だったんだろうと思う。少しは自分で考えろって何回かいわれた。
新たな領域へと探索を進めてるわけじゃないから、そこそこ時間はあった気がするんだけど、出禁解除の作業以外の時間を持つことはほとんどなかった。旧友に渡す触媒を調合する必要があるからって話だった。実のところは、旧友とか言う人と一緒にいる時間が増えたからじゃないかって、なんとなくそう思った。ついていけない二人の世界で(言葉が普通でも、調合のバランスだ篭手のつくりだなんてそんな話についていけるはずもない)軽口を交えて楽しそうにやりとりする彼らの姿を見る度に、そんな思いは強くなった。聞いててもわからないだろうから出てていいと彼に言われるのにも、どう答えるのが正しいんだろうって全然わからなかった。
そんなこんなで出禁解除の条件を提出したその日。彼の行動で、彼にとって旧友とか言う人がどんなに大事なのか思い知らされることになる。朝方、狼と散歩に出る前に、玄関先を掃除するオバちゃんに聞いてみたら、彼はやっぱり帰ってこなかったらしい。イヤな思いばかりが募っていって、精彩のない表情で帰ってきた彼を見たときに溢れた。気が向いたときに気持ちいいことをするだけじゃ、足りない。もっと一緒にいたい。どんな表情も、ぜんぶおれのにしたい。彼の反応なんて考えきれなかったけど、ただ、ぶつけた。抱きしめた腕の中から聞こえた、どこか戸惑うみたいなわかったって言葉に、これで辛いのがなくなる、好きだっていくらでも言える、大丈夫って、本当に嬉しかった。
後になってみれば、それは徹夜明けの彼を強引に閉じ込めて、望む答えを口にさせてしまったにすぎなかったってことがわかった。他人の気持ちなんて何一つ気にしない彼が、まさか流されるようなことなんてないと思ってたんだけど。
オヤジさんと新しくなんかいい仕事はないかとか話しながら、ぼんやりと斜め向うを気にする。彼は旧友に撫でられ、どこか切ない表情で唇をかんでいる。かと思うと、不意に相手の頬をつまんだ。それって、その人にもするんだ。楽しそうに笑う相手を、頬を紅潮させて見下ろす様子は、いつもの彼よりもずっと子供っぽい。――おれと二人のときには、絶対に見せない表情だ。もちろん、他のギルドのメンバーといるときにも。多分、彼だけに見せる表情(かお)だ。
「おい。……聞いてんのか?」
「え?」
「ほら、これが今回の報酬だ。あー、なんだ? もうちょっと奥の階層にいくつか取ってきてほしい素材があるって依頼が出てる。今回のに比べると、ちいっとばかり骨がある代物なんで、オマエが一人で受けるっつーんならちょっと回せねぇなぁ」
「あ、うん。……ええと、じゃあさ、場所だけでも教えてくんない? 相談してみる」
ほしのすなに戻ってから後、おれは普通の探索に戻っただけだけど、彼は公宮での調査中心の活動をすることになった。探索にもたまには参加していて、ギルドマスターのメディックとはるくらい忙しそうだった。けど。ああやって受け入れてくれたんだから、その、やらせてくれるとかそういうのは別にしても、ちょっとだけ特別に笑いかけてくれたりとかおやすみの挨拶とか、キスくらいはできるかなーとか、それくらいはって期待した。でも現実は、容赦なくカギのかかった返事のない扉と、完全におれの上を素通り
する視線だった。何一つ変わらなかった。むしろ、彼とする前に戻ったみたいだった。いやこれは単に忙しいからだ、でももしかしておれは彼に嫌われるようなことをしたんだろうか、それとも――。調査結果を報告する彼の姿に我慢できなくなり、ちょっと強引に夕飯に行くのを抜けておれは彼をおいかけた。結果。すべておれが勝手に期待して舞い上がっていただけだったってわかった。
「オヤジさーん、今日はコイツが払うんで!」
「ちょっと待て、誰がおごるといった! それに今日は一晩つきあうっつっただろオマエ!」
じゃ! と。爽やかな笑みを浮かべて、アルケミストの旧友がすたすたと店を出ていく。おいおいと呟くと。オヤジさんはカウンターを回り、それを追いかけようとするアルケミストを捕まえた。
……一晩、つきあうはずだったんだ。今日。店の外と、またわかんない言葉でやりとりしてるアルケミストを見るともなしに見ながら、おれは立ちつくしていた。
彼にしてみれば、おれが文句言うすじあいなんかどこにもないんだろう。他の人のにおいで帰ってくるのはイヤだって聞いたけど、それを了解したつもりはないとか。そもそも、何でそんなふうに言われるのかわからないとか。もうちょっと前だったら、一晩つきあうっていうのが即そういうのと結びつくとは思わない――ていうか信じたくなくて、もう少しあれこれ考えたんじゃないかと思う。でも今は違った。言葉はわからないけど気を許してる様子のやりとりや、彼の上気した顔なんかを見てると、どう見たって、それ以外の解答なんてないような気がした。
「――その素材の話については、メディックに伝えておくから」
あの人に逃げられたのがそんなにショックだったんだろうか。床に硬貨をばらまきつつ慌てて支払いをしようとするアルケミストを見ないようにしながら、おれはそう言って、おやじさんに手をあげた。おうよと手をふるオヤジさんを確認し、店を出ようとしたところ、腕をつかまれた。
「待て。……どこへ行くんだ?」
「用が終わったから帰る」
他に何かあんの? 彼がばらまいた硬貨を拾う手伝いをしようなんてこともせず、おれはさっさと店を出た。
しばらく通りを歩いて気づいた。――どうして追いかけてくるんだよ。追っかけるんなら向うでいいじゃん。横に並んだ細身の身体に、おれはひたすらにイライラしてた。
「何?」
彼がどうにか話かけようとしてるのはわかってた。何で。おれのこと好きじゃないくせに、どうしてそういう機嫌をとるみたいなことするんだよ。
「帰るんだろうが。どうせ宿は同じだろう」
でも、いっしょに帰る理由はないよね。アンタは鋼の棘魚亭にほとんど手つかずの料理と酒を残してたんだし。
午後の通りをひたすらに無言で歩く。彼は何も言わなかったけど、ただおれと歩調を合わせて隣を歩いてた。看板が見えてきたところで、ほんのちょっと彼の歩調が乱れるのがわかった。彼が何か言う前にと、おれは口を開いた。
「アンタ、前におれに搾取される覚悟がないならあの人には近づくなって言ったよね」
「……?」
彼は足を止めた。そのまま数歩先に進んでから、おれはふりかえった。戸惑うような表情(かお)をしてた。
「――アンタはどうなの?」
「どう、とは」
「アンタは搾取されてもいいの?」
アンタはあの人に対してとても手厳しいことを言ったけど、アンタ自身がとてもそう行動してるとは見えない。おれに対するよりずっと心許した表情で、ずっと親しげに楽しそうに話をしてるよね。
十分に注意している、と。そう返ってくるのを、心の隅で期待してた。だけど、彼の答えは違った。不思議そうにまばたきしたあと、ああと彼は言った。
「おれは別に。奴がおれから搾取しようとするであろうものは予想がついているし、提供したからと言ってどうということもない」
難しい答えだった。結局彼はどんなふうにあの人のことを扱ってるのか、どう思っているのか。
「それって」
うん? と。彼は首をかしげる。
「それって、あの人になら何をされてもいいって言ってない?」
「――ああ、そういう言い方もできるな」
友人ていうのは、本来そんなものなのかもしれない。おれはギルドの皆しか知らないからよくわからないけど。……だって、メディックはあそこから連れ出してくれていろんなものを与えてくれた恩人(こわいひと)だし、ダークハンターも同様だ。パラディンは多分、おれのことは多分後輩か弟分だと思ってると思う。そしてアルケミストは――正直わからない。だからギルドの皆を友人というのかどうかは良くわからない。ただ少なくとも、おれは彼らがおれから何かを盗もうとしてるとかいちいち考えないし、ちょっとした言葉遊びやカードの勝ち負けみたいのはあっても、基本的におれに悪いことをするとは思ってない。だから、あの人が彼にとっての旧友っていうのなら――当然のことを言ってるのかもしれなかった。でも。おれはただひたすらに、自分が口にした言葉と、それを肯定する彼の表情に打ちのめされていた。ああ、彼にとってあの人はとても大事な相手なんだ。彼自身の観察眼で、あの人はどちらかというと信用できる相手ではないと思っているらしいのに。いや、そのことすら、あの人に余計な誰かを近づけさせないための嘘みたいに思える。
何も言えずに、おれはきびすを返した。
「おい、待て。全く時間がないわけじゃあないんだろう?」
その背中を彼の声が追ってきた。
「ヒマならあの人につきあってもらえばいいじゃん。どうせ一晩過ごすつもりだったんだろ」
「なんだそれは」
それが精いっぱいだった。彼の声を無視してフロースの宿にかけこみ、メディックへの伝言も持っていかず、ただ便所に閉じこもって泣いた。大部屋住みなんだから、他に行く場所なんかない。寂しがらせてゴメンとか、せめて自分も会いたかったとか、そう言ってくれてたら、きっと何かが違ったんじゃないかと思う。でも残念ながら、彼はそう言ってくれなかった。思ってもないんだろう。他人が思い通りの行動をしないなんて当たり前のはずなのに、こんなにもどうしようもないくらいに辛いのは初めてだった。
*
彼が伸ばしてくる手ははねのける。でも、彼の行動からは目がはなせない。最悪だった。彼が心底メディックのことを嫌ってるのは知ってるのに、そのメディックにさえ妬く有様だった。もしも彼とメディックが一緒に働いてる時間って言うのがなかったとしても、きっとおれと彼が一緒にいるってことはないに違いないのに。
それでいて、たちのわるい安堵と喜びもあった。彼がおれの表情を見ながら手を伸ばしてくる。はねつけた後もまた、声をかけてくる。彼は調べものと探索を両方こなさなくてはいけなくて、とてもとても忙しいはずなのに。
いっそ顔を合わせることがなければ楽なのに。彼が追いかけて――そう勝手に思うくらいいいじゃん、来てくれる。苛立った顔じゃなくて、困った顔をするのを見る度に、おれはそんな矛盾した気持ちを抱えていた。もしも誰かに話してたら、全員が全員、おかしいと言っただろう。
まわりのことを気にする余裕なんかほとんどなかった。ただ、ひどく態度に出てないといいなとは思ってた。一応、アルケミスト以外には普通にしてたつもりなんだけど。でも、パラディンがいつもより余計に剣の相手をしてくれたり、一皿おごってくれたりしたから、やっぱり様子はおかしかったかもしれない。
そんな日々が続き、今日はアルケミストも含めて一日中探索って日だった。目当ては氷花で場所は第三階層・六花氷樹海。公宮からの任務だ。第四層へ行くための手掛かりとひきかえに引き受けた。らしい。
で。それはともかく。これって公宮から直接受けたって話で、鋼の棘魚亭のオヤジも知らない任務ってことだとか。これから先、公宮に探索の階層を知らせるんなら、期待のギルド登場! でいいんじゃないかと思うんだけど、どうやら違うっぽい。なんなんだろ。もしかして今回だけの取引ってやつなのか。
……相変わらずオヤジには、オマエらもうちょっと気張れよ先越されんぞ扱いされて反応に困ってるとか何とか。
エスバットが道を開いたといっても、新しい階層に散歩用の小道ができるわけじゃない。磁軸でたどりついた場所には、まっしろで滑らかな地面が広がっていた。各々の装備と辿るべき経路を確認し、まっさらな新雪に足跡をつける作業に入る。どこかで、ばさりと木が揺れる音がした。
木から雪が落ちる音がするたびにあたりを伺う必要はないけど、油断していい場所じゃないのは百も承知だ。翼人に囲まれることこそないけど、この階層の魔物は十分すぎるほどに強い。
幾度かのはずれを経て、おれたちはあたりに出会った。ばさばさと枝が雪の重さから開放される音があったかと思うと、小枝が折れる音が続く。次の瞬間、思いのほかの素早さで、幾体もの両手に余るほどに大きなやどかりに行く手をふさがれた。
反射的にどまんなかにとびこみたくなったけど、深呼吸一つ分の間をおいた。その間に、パラディンが分厚い盾を手に前へと出る。目の焦点をぼかすようにして視界を広く取る。ダークハンターが用心深く斜め後ろ辺りについてる。メディックとアルケミストをカバーする位置だ。背後に脅威の気配はない。そんな大雑把な確認をすませ、パラディンに続いて前に出ようと膝を緩める。
「――!」
名を呼ばれた。そんな場合じゃないのに、喉元を抑えられたみたいに息が詰まった。ほんの一瞬の間に、駄々っ子みたいな感情が暴れそうになる。そんな場合じゃない。無理やり全部おさえつけて、おれは背後を伺った。
アルケミストがまっすぐに右腕をつきだしていた。左手は腕のあたりに添えられている。既に彼の関心はおれから離れているようにも見えた。他の階層ならば、彼が何を求めているのか、もう一言二言情報が欲しいところだろう。けれど、今、おれがいるのは六花氷樹海だ。
パラディンの横を抜けて前に出るという方針を変更する。戦斧を構え、全身の感覚を研ぎ澄ませて背後の気配を探る。一ヶ月の間に身に付けた、彼が術開放に必要とするであろう時間を予測する。必要不要って言うなら、すぐかな。でも、前にはパラディンがいる。ならば。心の中一定のリズムでカウントをとりはじめる。メディックが射線をあけるようにと声を上げるのを遠く聞いた。
とびかかってきたヤドカリを剣を抜かず盾でいなしている。そんなパラディンの姿が、とてもゆっくりに見えた。彼はその勢いのまま、斜め前――魔物の背後へと抜けようとしている。もうすぐカウントが終わる。彼の声、そしてカチリという聞こえるはずのない音を聞いた気がした。素直に従って、地面を蹴る。次の瞬間、目の前に焔の花が咲いた。
戦斧をどうふりおろすかなんて、意識する必要はぜんぜんなかった。まるで、正しい軌跡が定められてるみたいに身体が動く。目の前のものを斬るというよりは叩き潰すというほうが正しいそれが、嘘みたいに軽やかに舞った。
息を吐いたころには、すべてが終わっていた。元気いっぱいだったヤドカリたちは、粉々の破片になって地面に散らばっている。確認するまでもないくらいに安全だった。
戦斧をおさめ、片手をあげて背後に合図を送る。軽く肩を叩かれた。パラディンだった。小さく頷いて、樹海の恵みが(なにか)ないかと辺りを見回した。
*
幾度か繰り返した。彼が名前を呼ぶ以外は、探索の間も含めて一言も口はきかなかったけど、タイミングを外すことは一回もなかったし、要求を勘違いすることもなかった。六花氷樹海だからっていうのは大きいと思う。
心地いい疲れと一緒に世界樹を出て、宿へと帰る。今日はずいぶん歩いたとか、魔界の邪竜がやっぱり復活してるとか、結局エスバットを壊滅させた魔物っていうのはどれくらいヤバかったのかとか。もしくは、交易所の新しい武器を見たかとか、鋼の棘魚亭のオヤジのオススメっていうのはズルくないかとか。そんなある意味どうでもいい話をしながらの道行だった。
不意に、頭になにかが乗った。パラディン――じゃない。メディックでもない。そのまま、少し乱暴に髪をかきまわされた。
アルケミストだった。彼はこちらを一瞥もしないままに、てのひらを引いた。そして、メディックに声をかけた。
「――あ」
食欲がないから先に行く、と。そう言って彼はメディックの返事を待とうとせずに、さっさと皆のもとを離れる。
追いかけなくてはいけない、と。そんな衝動が喉元まできた。けど、そんな思いは同時におれの喉を塞いだ。いや、どうしたって言うんだ。彼が食事をともにしないのはいつものことだ。話し合いには呼んでくれって言ってるし。何一ついつもと変わらない。なのにどうしておれは、彼を引き止めるべきだと思ったんだろう。
その後、彼は常態にもどった。彼は必要最小限を少し下回るくらいに、ギルドの皆と話をする。あえていうならメディックと話すことが多いけど、それは彼がギルドマスターだからだ。他の皆に対しては、天候や飯のよしあしについてすら口を開かない。完全に、今までの通りだった。彼のてのひらを払いのけてきたのはおれなんだから、文句なんて言えるはずもない。なのに、今までどころじゃなく胸が痛んだ。ただ、元に戻っただけなのに。
どうすればいい? どうする必要もない。他人に対し何一つ関心がないといった様子の彼の表情。素通りする目線。襟首を掴むことなんてないてのひら。何も変わらない。何も不具合も不都合もない。――彼が追いかけてきてくれてるとか、そんなたちの悪い喜びがなくなっただけだ。ほんのちょっと、彼が注意を払う相手からおれがはずれただけだ。
公宮からの依頼の品がそろい、明日はメディックがそれを届けにいく、と。そんな晩のことだった。
きっと、もう寝てるか、そうでなければメディックとの話が終わってないだろうな、と。そう考えながら、おれは彼の部屋の扉を叩いていた。返事がないのを確認して、それで満足するつもりだった。
期待に反して、扉は開いた。ほんの少し驚いたような表情になった後、彼はとても穏やかに笑った。ここしばらくの路傍の石を見る目じゃなくて、ベッドの中で何度か見た表情(かお)だった。
「――入るか?」
柔らかく響く声だけで泣きそうになった。確かに、おれに話しかけてる声だ。ちょっとだけおいて頷いた。しばらく見ないうちに、彼の部屋はちょっとだけ変わってて、よそよそしくなったみたいな気がした。
*
まあ、その。それで、そういうわけで。元に戻ったというか、むしろ、それ以上というか。寝不足の結果として、誤解も勘違いもなくなったとは思えないけれど、その――とりあえず、多分、気が向いたときに気持ちいいことをするだけじゃない間柄になれたと思う。気持ちいいとそれはヤだ以外についても注意を払ってくれるようになるらしい。
氷花も届けたし、翼人に通行手形も披露した。今は、ピンクの花びら舞い散る第四階層の探索だ。……うん、そんなことはある意味どうでもいい。亀はてのひらサイズがいいよねとか、そんなこともどうでもいい。とにかく、そうやって世界樹の探索は順調にすすんでる。ていうか、ある意味普通の生活が戻ってきた。特別忙しくもないし、さりとてヒマでもない。やることはいろいろあるけど、必ず今日やらなきゃいけないことっていうのはそんなに多くない。そんな日々だ。
つまり、ぶっちゃけ作ればヒマはある。けど。――あれ以来、ただいまとおやすみのキス以上のことは何もない、とてもとても清い日々だった。……なんで? それはおれが誘うならカッコよくスマートにとか欲目を出したから。彼がどうやらこっちの出方を観察するモードに入ったから。うああ。でもさ、でも、せっかくなんだし! 好きだって言ってから最初なんだし! わかったって、その後なんだし! だから家畜扱いだけじゃなくて、カッコいいとこ見せたいとか思ってもいいじゃん! もちろん、彼に押し倒されたらそのまま流れるけど! けど、なんか面白そうに観察してる……し……あれ? もしかして、終わって、る?
いろいろ、彼のことを聞いて、おれが彼のことを好きなのは駄目じゃないとか、なんかたくさん話して、盛り上がって、その、久しぶりにベッドに押し付けられてるみたいな状態で激しいキスをしてというかされて、それで、ええと、もう正直、このままでいいかなーと思ったりもしたんだけど! でも、ハッキリいって、彼は無駄に頭がいいというかなんというか、多分こんなものだろう的に思ってると、絶対にそのすきをつかれる。悪気だと言うつもりはないけど、ないと思いたいけど! だからおれは、そのまましがみつ
きたくなる手をなだめすかして、どうにか、ようやく、正気を保って、がんばって、それで、ぐいとおしのけた時の表情は、なんかちょっと忘れられそうにない。ほんの少し目を見開き、驚いたような表情をした後、ちらりと目線をさげー―どこを確認してるんだよどこを! そのあと、面白そうに笑った。はいはい、と。甘やかすような優しい声で言った後、枕に頭を預けておれを見て撫でて、他に何があるんだ? と、尋ねて……ううっ。今までになくおれを見てくれてるみたいで、それですごく穏やかで優しげで、幸せだけど、幸せだったけど。つか、その後、額とか頬とかに軽く唇が触れるの、すごい気持ちよかったけど、ちゃんと真面目に聞けって拒否したのは……失敗? 違うー。そんなことない、はず、だよね。……それでいろいろ話してるうちに寝た。文字通り。他人がそばにいると寝れないとか言ってた人が先だったのはどーゆーことかな。おれもほどなく安心して気持ち良く眠りましただけど。ちょっと寝足りなかったんだから、文字通りに寝たってのはある意味正しかったんだけど。
で、だ。……今現在彼は、ギルドほしのすなとは別行動を取っている。ていうとなんか、また出禁!? みたいだけど、なんのことはない、夕飯を例の旧友とかいう人ととってるだけだ。うん。近い距離で楽しそうに笑いながら、酒のボトルに手をかけてる。
……。ていうか。明日は休日、だから一晩むつかしい錬金術のええと論文? をツマミに、一晩語り合ってくるらしい。なんかもう、どこからつっこんでいいかわかんない。せめて、あれ以来初めての夜を過ごしてから……でもやっぱヤだ。一晩て、よりによってあの旧友の人ととか。目的あるにしたって、でも、ついうっかり――じゃなくても、あんな笑顔で酒まで入れて二人きりで過ごすとか、ない、イヤ、無理。……一度はイヤだって言いはったら諦めてくれたけど、今度は彼もひかなかった。他に誰がいるんだとか、ちょっと待って。確かにおれはバカですよ。彼が好きなむつかしい話なんて、子守歌か混乱の呪歌にしかなんないですよ。でもそれにしたって、その言い方はヒドいと思う。何されてもいい相手よかマシだけど、そういう問題じゃない。あんまりイヤだって主張すると、そのうちこっちが嫌われかねない気がするし。どうしろって言うんだよ、どうすればいいんだよ。でも、イヤなんだからしょうがないじゃん。
「――!」
イライラと向こうのテーブルを気にして、飯の味もわからない状態だったおれは、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。どうした? と。のんびりしたパラディンの声に、なんでもないと返事をしながら、アルケミストの方へと向かう。
うん、旧友の人の襟首を掴んで顔を寄せてる構図とかなしだと思う! 絶対、なしだと思う! ていうかそれ以上やったら営業妨害だから! むしろオレが妨害するから!
気配なんか消してなかったけど、彼は話に夢中でおれに気づいていなかった。なんか逃げ腰の旧友とか言う人を一生懸命つかまえて、なんか言ってる。おれは、そっと彼の背後から腕を伸ばした。そして、左腕を首に巻き、右腕でしっかりと抑え、しめあげる。
一瞬、気配が揺れたかと思うと、彼は腕を引き剥がそうとした。けど、残念ながら、ポジション的にもおれのが有利だし、そもそもの腕力も違う。ふっと抵抗がやんだところで、おれは腕を緩めた。そして。
「やっぱりおれ、アンタに言いくるめられた気がする」
そう囁いてから、彼を解放した。げほげほと咳き込みながら、彼はおれを睨んだ。そして、どういうことだと低い声で尋ねる。
「後で言う」
そう短く告げて、おれは背筋を伸ばした。そして、騒ぎを見守っていたアルケミストの旧友に頭を下げる。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。もう邪魔はしません」
そして、用意しておいた謝罪を口にした。ちょっと面食らったような顔をしてた彼は、一拍おいていやこちらこそと笑う。なにがどうこちらこそなのかなんてわかんないけど、とりあえずここまでだ。何か言いたそうなアルケミストをちらりと見てから、おれはほしのすなの皆の元へと戻った。
一体どうしたんだというパラディンに対しては沈黙を守り、お疲れさまですと面白そうなメディックからは目をそらす。うん、ダークハンターが何も言わないのだけが救いかも。
なんだかこう、やっちゃったかなーと思いつつ、中断してた食事を再開する。イヤっていうのは言った。文句は後から! って、あれ? これおれの好きなやつじゃん。何食ってたか忘れてた。なんてことを考えながら席につこうとしたところ、アルケミストの旧友の声が聞こえた。って、何? 何なんだ?
そこの美人なアルケミストのおねーさんとかなんとかいういくらかの交渉の後、別テーブルにいたちょっときつそうな女性が、彼らのもとへと向かった。どうぞどうぞとアルケミストの旧友は席を譲り、女性のもともとのつれに対し、ちょっとお借りしますとかなんとか言って頭を下げている。
……。……増えた?
なんか紙を広げて女性に示してるアルケミストの姿に、そんな言葉が浮かんだ。親しい人だったのかな。確かにアルケミストは結構ほしのすなの皆とは別行動とってるから、ギルドの外に知り合いがいてもおかしくないけど。
旧来からの友人みたいに――ていうか、まあうん、あの旧友とか言う人と話してるときみたいに、アルケミストときつそうな女性は顔を寄せ合っている。ようにみえる。にこにことその様子を見守りながら、旧友とかいう人はオヤジさんからグラスをもらって、女性の分の杯を用意していた。
おれはちらりと女性の元連れの様子をうかがった。なんか呆然としてる。まあ、そりゃそうか……。しばらくしたとこで我にかえったらしく、憤然とアルケミストたちのテーブルに向かった。すぐに気づいた――というか、最初から二人に比べると少し引いた位置にいたアルケミストの旧友が謝ってると、不意に女性が顔をあげた。
「すまない。先に帰っていてくれ」
あっちゃー……。つか、アルケミストは少し気にした方がいいと思う。そう、真剣な表情で紙ばっか見てないで。ああうん、目に入ってないねアレ、完全に。元連れの男が怒ってるっぽいとか、もう全然見えてない。アルケミストだけじゃない。女性の方も何一つ気にする様子はないし、行動を変えるつもりもないみたいだ。ていうか、早く会話に戻りたがってるというか、アルケミストから紙をとりあげて自分がゆっくり見たがってるっていうか。いくらかきつい言葉と戸惑いのやりとりがあった後、がっくりと肩を落とし、元連れの男は店を出ていった。
……なんかこう、どっかで似たような光景を見た気がするんだけど、きのせいかな。うん、きっと気のせいだよね。ていうか、増えた? 何がっていうか、うん、増えた。
薄暗い何かの中に湧き上がる疑問をねじ伏せ、おれは仲むつまじく語り合う男女から無理やり視線をひっぺがした。
一晩語り合う、か……。あのおねーさんも? やっぱり味のわからなくなった夕飯を機械的に口に押し込みながら、おれはとりあえずこの後狼に付き合ってもらって世界樹に行ってこようかなーなんてことを考えてた。だってしょうがないじゃん大部屋暮らしなんだから、やつあたりも何もかもできないんだって
ば!
*
狼につきあってもらって、夜の世界樹を走り回った。っても、さすがに一番下の階層だけど。美味しい水だかなんだかをとりにきてたどこかのギルドにうっかり切られそうになったり、ついでに水源に思い切りダイブして文句言われたり――いやかかってきたのそっちじゃん! うん、微妙によろしくない散歩だった。……ていうか、月がうつっててもうつってなくても水の味なんて変わんないと思うんだけど、金持ちの言うことって良くわかんないよなー。
連中と分かれた後、もう一周くらい行きたいと思ったんだけど、いいかげんにしろと狼につっこまれた。ので、しぶしぶ今日の散歩はおしまいにする。狼の忠告はいつも正しい。フロースの宿に帰りつくと、門限どころか、窓明かりすら、大部屋を筆頭にほとんどが暗くなっていた。
さて。狼を家畜小屋に戻した後、どうやって中に入ろう。メディックならきっとまだ起きてるだろうから頼めばいいだろうか、と。そんなことを考えながら、明るい窓を確認してて気づいた。……アルケミストの部屋が明るい。時間だけ考えればそんなに不思議でもないんだけど、彼は今日、一晩出かけてるという話じゃあなかっただろうか。
こくりとおれは息を飲んだ。そして、少し考えてから、小石を探す。確実にあれはアルケミストの部屋のはず、と。そう確信してから、勢いを加減して小石を投げた。さすがに一個じゃ無理か、と。もう一個拾って、同じ動作を繰り返す。しばらくしてから、窓があいた。
見下ろしてくるのに手をふると、彼は大きくためいきをついた。そして、無言で背後をさす。あけてくれるのかな? おれの返事を待たずに閉まる窓を見てから、宿の裏口へと回った。
「泊まる場所も確保せずに夜遊びか」
裏口にカギをかけるなりの呆れたような言葉を聞き流して、おれはただいまとだけ言った。はいはいおかえりと面倒そうな返事に、数回目なのに全然色あせない感動を味わう。
「アンタこそ今日は帰らないんじゃなかったの?」
「初対面の女性をつれこんで一晩語り明かすわけにもいくまい」
物足りないといえば物足りないが、これからの楽しみが増えたからよしとするか、って。……。
おれはきびすを返す彼を追った。ちらりと彼はこっちを見た。けど、何も言わなかった。うん、大部屋は一階だから、階段を上る必要はない。
「じゃあさ」
自室のカギをあける背中を見ながら、おれは言った。ちょっとだけうわずってるのがカッコ悪い。カッコ悪いけど、そんなの気にしてられない。旧友の人に追加で、おねーさんまで? いやあの人、パートナーいるみたいだけど。なんかイヤな予感するんだよ、旧友の人とは違った意味で!
「じゃあ、今晩はおれといてよ」
扉をあけずに彼はおれを見た。……あれ? なんかすごくうさんくさい表情……って、え?
「オマエといるのは構わんが、やらせる気はない」
「……え」
それでもいいか? と。そんな容赦ない言葉に、なんでと叫びかけて口をふさがれる。
正直、断られるとは考えてなかった。だって、だって! この前おあずけしたし、もともと一晩語り明かすつもりだったんだから、しぬほど眠いとかないよね!? 明日休みだし。それに今までだって、や、やりたいっていうの駄目っていったことないじゃん! ぐるぐると考えながら、思わずすがるような目になって彼を見上げる。彼は眉を寄せたまま口を開いた。
「悪い予感がする」
なんだよそれ! ていうか、ねえ、もしかしてアンタ、出方を見てたんじゃなくて本当にしたくなかったの? また、誤解してたわけ? おれ。
「門限後だ静かにしろ」
パニックのまま、口をふさぐてのひらをひっぺがして問い詰めようとしたおれに対し、彼は少し強い口調で言った。動きを止めたおれに対し、彼は騒がないなと念を押した。頷くのを確認してから、ようやく彼はてのひらを引いた。
「オマエ、前にいれさせたときのことをおぼえているだろうな」
扉に背を預け、警戒心をあらわにして、彼はそう言った。ええと、前、って、どのことだろ。おぼえてないとは言わさんという剣呑な目つきに、急いでおぼえてると頷く。全部おぼえてる。ただ、彼がどれのことを言ってるのかわかんないだけで。……って、この様子だと、多分、次の朝灰皿投げられたあれ、かな。
「ああいうのは付き合いきれん。だから、やらせろというなら断る」
「……え。待って、それって、その、も、もう、するのはナシってこと?」
た、確かにおれは、気が向いたときにきもちいいことするだけの関係はイヤだって思ってるけど、それってきもちいいことをしたくないって意味じゃ絶対ない! むしろ是非やりたいっていうか、多分それ以外のこともアリの方がもっと気持ちいい、んじゃないかと思う!
「そうは言っていない」
「言ってんじゃん!」
声が高いと言って、彼はおれの頭をぽかりとやる。……篭手じゃなくてよかった。
「入れさせてやる気はないが、可愛がる気は大いにある。それでいいか?」
「……」
「いいな?」
「……ずっと?」
そうだな、と、彼は首をかしげる。そして、まあ様子見だなと頷いた。うう。
*
その後。撫でたりさすったり舐めたりくわえたり上になり下になりって感じで、彼の言葉通り、おれはおおいに可愛がられた。い、今までしたことなかったこともされたっていうか、した。いろいろ。ええと、恥ずかしいこと言わされるのって、言葉攻めってゆーんだっけ。最初のうさんくさい表情はなんだったのかっていうくらいにノリノリだった。
そんな彼のノリが、途中一回だけ途切れた。
「……オマエ、おれが言ったことを本当にわかってるのか?」
なのに、いいのか? って、彼とは思えないほどに弱々しい声で尋ねられた。何を? と。背後からおれを抱え込むようにしてる彼に、そう尋ねようとした。だけどできなかった。まあうん、内部(なか)の弱いとこを指二本で刺激されながら、先走りと前に出したのでぬるぬるになってるものの根元を抑えられたらあんまり複雑なことはできないと思う。ずるい。
次に彼が口を開いたのは、おれに自分で自分のを愛撫させるためだった。ホントにずるいと思う。その後は、上に乗ったりなんやかやで忙しくて、詳しいことを聞くヒマなんかなかった。
――多分、彼が言ってたのは、未来(さき)がないとか、与えられるものは何もないとかそういう話のことだと思う。与えられるものについてはともかくとして。未来(さき)については、いつくるかわかんないそれより、今彼に触れられないことの方がイヤだから、ひとまずは目をそらしてる。そらしながら、その未来が来るころに、彼の気が変わってないかななんて都合のいいことも考えていたりとか。うん。だって、おれが思ってたより、多分彼が自覚してるより、この人ずっとおれのこと好きみたいだし。
オマエのことは必ずしも優先しないとか。おれ以外の相手に対して何されてもいいとか。未来(さき)はないけど、しばらくつきあってほしいとか。ほかを知らずに安易に決めつけるなとか。自分のことを好きだと思ってることも含めて興味深いとか。全部ホントだとすると――ホントのことを全部おれにさらしてるんだとすると、この人おかしいんじゃないかと思う。それでおれが頷くと思ってんのかよ。
たった一言、好きだって言えば全部目をつぶったと思う。でも彼は言わない。でも、限りある時間をさいてほしいという。旧友の人にしたって、若気の至りと顔をしかめるより、今はそう言う相手じゃないとだけ言えば十分なのに。……ていうか、そういえばしてみてもいいのかもしれないなとか、一回やったら二回も三回も同じとか、どうしてそこで言うかなこの人。おれがじゃあどうぞなんて言うわけないじゃん。じゃあいっしょにとかもないから。めんどくさいからしないって言ったって、聞いちゃったらしっかり邪魔しなきゃって思うってば。過去にしたことがあったっていうことすら気に入らないんだから。向うにそんな気があるはずがないとか、それアンタの決めつけだから。他人の顔色とか思惑とかうかがうの、超苦手なアンタの。
まあそんなわけで。言ってないことはあるだろうけど、言ったことは多分言葉通りに信じていいんじゃないかと思う。
うん。なんにせよとりあえず。この先、使命に従うため郷里に帰るときに別れるっていうのと、おれにいれさせる気はないっていうのについて、彼の気が変わるようにがんばってみようと思う。……って、何をすればいいかなんてあてはないんだけど。
fin.