目の前にはライオンみたいな大型の獣がよだれを垂らしていた。みたい、ってのは、頭が二つあるからだ。黄金の体毛がかがり火にてらされ、それそのものが光っているように見えた。
大きな足が、床の黒いしみを踏む。腹の底から響くうなり声が鼓膜だけでなく、あたり一帯を揺らす。
「は……はは……」
間抜けにひきつった笑い声が聞こえた。なぜか、がたがたと視界が揺れている。
「ねぇ、冗談、でしょう……こんな……。僕はスパイなんか、じゃ、ない、っていうかあんたら何なんだよ、なぁ、こんなのおかしいだろ! なぁ!」
獣の吐く息が、まるで嘲笑みたいに聞こえた。なぁ、なんでこれは一息に襲ってこないんだ? そう思った瞬間、軽やかに獣の身体が宙に躍った。
「ああああああああああああ」
それはむしろ優しいといってもいいような動作だった。幅の広い足がおれの肩口を押し、漆黒の闇を内包する巨大な口がまんまえに迫る。白い牙からよだれがしたたるのが、スローモーションで見えた。
ごつんと衝撃が後頭部から全身へと伝わる。熱い風を右の頬に感じたかと思ったら、視界から口腔(やみ)が消え、ごりっという鈍い音が聞こえた。それは獲物を捉え、食いちぎった音だった。金色の毛皮を、黒い何かが濡らしている。
「あ……ああ……はは……」
くちゃくちゃ、ばりばりと咀嚼の音が聞こえた。ああ、あれはおれの肉だったのかとしばらくおいて気づいた。視界の端に見える赤はおれの肩口から噴き出している血だ。不思議なほどに痛みは感じなかった。ただ、肩が軽くなったような気がした。
巨大な舌があらわれ、べろりと口元をなめた。獣は四つの目でじっとおれを見ていた。ペットの犬猫とは何か違うように見えた。
「タタカワヌノカ」
にたり、と、獣の口元が歪んだ。多分笑ったんだろう。
「た、すけて……」
身体に乗っていた太い足がどいた。大きく胸が上下した。深呼吸の瞬間、どこからともわからないほどの強烈な痛みを知覚する。口が勝手に開いた。声は出なかった。いや、呼吸すらも止まった。ただ、全身がぴくぴくと勝手にひきつる。そのたびに、痛みの限界が更新された。
獣は咆哮をあげた。腹の底どころか、建物全体までもを揺らすような声だった。同時に、ふうっと視界が暗くなる。痛い痛いと意味すらも遠い言葉だけが残った。
*
目をあけたつもりなのに、暗闇は去らなかった。右手を動かしてみたら動いた。肩から首のあたりで、じんと鈍い痛みが存在を主張する。何度か瞬きしたが風景は変わらない。目が見えなくなったのかと思ったけど、単に暗いだけだった。
視界の隅にぼんやりとした明かりがひっかかったような気がした。何とはなしにそちらに顔を向ける。瞬間、ひっと喉がなった。
人の頭ほどもあるようなカボチャが浮いていた。カボチャの上には三角形の帽子、底面には黒いボロ布。目と口を模したいびつなくりぬきの奥には、得体の知れない鬼火がちろちろと揺れている。ハロウィンの頃、店先にならぶあれだ。ピアノ線も針金も見えないけれど、それは空中に浮かび、不自然に揺れていた。
けけけけ、けけけけ、と。おれが目をさましたことに気づいたのか、それは甲高い声で笑い始めた。口に見えるのは、カボチャをくりぬいただけの場所だ。開閉などできるはずもない。そして、黒い布の中には首どころか胴体があるようにすら見えないのだ。なのに声は響いた。おれはすぐにそのカボチャの声だと理解した。目の前にいるのはたったの一体なのに、まるでたくさんのそれに取り囲まれてるみたいな声だった。
「有罪、有罪、ゆうざーい」
心底楽しそうに、それは笑い続ける。まるで重さに耐えかねたかのように、ぐうっと重そうなカボチャが後ろにそる。ヒーホー! ヒーホー! と、興奮した声をあげながら、それは身体を震わせる。
そのまま分解してしまうかと思った。だが、そうはならなかった。引き絞ったばねをときはなったみたいに、びん! と、顔が位置を戻す。瞬間、顔が光った。
「……ぐっ! ああああああああああああ」
いや。光ったんじゃない。それの何もないはずの空洞――口が、いきなり焔を吐き出した。そう、おれに向かって。何が起こっているのかわからなかったおれには、当然よけるなんてことはできなかった。わけもわからず、おれの上半身は焔に包まれた。
髪が、皮膚が焦げる。服が燃え上がる。皮膚は燃えない。人体は六十パーセントを水が占めている難燃性の物体だ。ガソリンをぶっかけるくらいの手間をかけなければ、身体全体が燃えるわけではない。だが。髪や服は違う。あっというまに髪は燃え上がった。ポリエステルや合革は溶けて皮膚に張り付いた。反射的に空気を取り入れようとすると、たんぱく質と合成繊維の煙で喉が焼けた。
ぼっ、ぼっ、と、辺りかまわずカボチャが焔をはいている。狂気じみた甲高い笑い声が室内満たした。
「助かったな運が良かったな悪かったな」
けけけっ、と。笑いながらカボチャは奇妙なダンスを踊る。おれは、床に倒れたまま指先をのろのろと動かすのが精いっぱいだった。もっとも、動かしている意識もなかったのだけれど。ちろちろと燃える炎を消すことすらできず、おれは消し炭をまとって、いや、消し炭になって床に転がっていた。
「悪かった良かった悪かったヒーホー!」
くるりとカボチャは宙で回った。そして、焔の代わりにきらきらとした滴をまき散らした。
瞬間、おれは意識が戻ったのに気づいた。ぱり、と、何かがはがれる音がした。こぶしを握る。すると、筋肉の動きに耐えきれなかった消し炭――服の痕跡が床に落ちる。下からは、真っ白で柔らかな、まるで日焼け跡をはがしたみたいにきれいな皮膚が現れた。
思わずおれは身体を起こした。ぱらぱらとかつては髪や服だった焼け焦げが落ちる。痛みは一切なかった。呆然とおれはカボチャを見上げた。カボチャは踊っている。何を考えているのかなどわかるはずもない。
「助かったなニンゲン残念だったなニンゲン」
何かの発作を起こしているみたいな様子で、カボチャは矛盾をまき散らしていた。さっきみたいに、ぐぐっと身体をそらすのを見て、おれは声にならない声をあげながたずるずると後ろへといざった。
ぽんと間抜けな音とともに、カボチャの上にほんの一瞬焔が現れる。おれは目を見開いた。へたくそな操り人形の動きでカボチャは姿勢を戻す。何の気まぐれか、それはおれに向かってやってくる。震える身体を叱咤し逃げようとするが、すぐに背中は壁に突き当たった。
「た……」
焦点もあわないくらいの目の前に、うつろな眼窩が揺れる。指先が何もない床をえぐろうとし、すべった。
「た?」
けらけらと小さく笑い声を響かせながらカボチャは言った。
「た……すけて……」
にっと、暗い眼窩の奥の鬼火が笑ったように見えた。瞬間。
「ああああああああああああ」
目が光に焼かれる。いや、まさに文字通り、目が炎で焼かれた。てのひらで覆ってもなお、フラッシュの強烈な光を真正面から浴びたみたいな視界は変化しなかった。ただ、どろりとした熱いしたたりを手のひらに感じる。痛みというほどの痛みはない。ただ、顔の表面は熱いと思った。
「だーめだめだーめ、マガツヒ、マガツヒけけけけけけけけけけ」
手の甲にひやりとした水滴の感触があったかと思うと、ふっと視界が暗くなる。やがて、くるくると回るカボチャの姿がぼんやりと見え始めた。
まただ。また、だ。
「歌舞伎町収容所収容所収容所マガツヒマガツヒだにーんげんもっとわめけもっと怖がれ苦しめでも死ぬないや死んでもいいやスパイたくさんたくさんたーくさーん」
今度は、焔だった。ところかまわず放たれる焔から、ごろごろと転げまわって身をかわした。いや、かわそうとした。だが。まったくもって、無駄な努力だった。皮膚を焼いたのも目の前ではじけたのも、明らかにカボチャの思惑通りだった。
「……あ……!」
そう、背に直撃した最大級の焔がそう語っていた。声もなくのけぞった瞬間、両手足を続けざまに焼かれた。かろうじて焼け残っていたボトムの端がちろちろと燃え出す。上腕部に、背のまんなかにと、小さな焔が炸裂する。
「……」
声もなく鉄板の上のみみずみたいに動くことしかおれはできなかった。熱いとか痛いとかの感覚はすぐになくなり、ただ視界が暗くなる。なんとなく動かそうとしている腕が動いていないだろうことがわかった。
「コラ、何やってんだてめぇ」
「ヒホ」
「ったく遅い遅いと思ってきてみればよぉ。コイツは収容所に連れてくんだろうがよ。せっかくオルトロスがうまいことやったってのに、おめーが殺してどうするよ。おら、さっさと連れてくぞさっさと!」
「ヒホー」
「ヒホー、じゃねぇ。おら、さっさとやれ」
またもや、冷たい滴の感触とともに視界がよみがえる。皮膚は焼かれているはずだ。水滴の感触なんてわかるはずがないのに、なぜかその冷たい心地よさはわかる。これでおれはまた生き返る。
全身が痛みを訴えたかと思うと、それもすぐに消えた。
少し離れたところに、カボチャが浮かんでいる。その向こうには、プロレスラーみたいにたくましい人影……いや、違う。赤銅色の皮膚なんて文学的な表現ではなく、その人影の皮膚は赤かった。つるりとした頭頂部にははっきりとしたコブ――つのがある。あれは、鬼だ。子供の頃の絵本にあったそのままの姿に、おれは息をのんだ。
おれが目をさましたことに気づいたのだろう。鬼はぶんと手に持った槍をふった。
「さっさと出やがれ」
「……あ……」
「けけけ」
ぽっとカボチャの前にあらわれた焔におれはびくりと身体をふるわせた。遊んでんじゃねぇと鬼はカボチャにげんこつを落とす。
「おめーは今から歌舞伎町収容所に向かうんだよ。逃げようなんてした日にゃあ命はねぇからな。ま、たどりついたからっていいことなんざないけどな」
今度こそちゃんと連れて来いとカボチャに向かってすごむと、鬼はついてこいと合図をする。おれは言われるままにふらりと立ち上がり、一歩踏み出した。
部屋の外に出て、おれは自分が牢屋の中にいたことを知った。鬼は二つ先の牢屋を覗きこみ、ひょろりとした人影を引きずり出していた。
ひいいお助けお助けなのですとわめく人影の腕をむんずとつかみ、さらに歩を進めていく。
「いけ」
カボチャの声にびくりと身体を震わせると、おれはふらふらと鬼の後を追い始めた。そんなやりとりの間にも、鬼はもう一人捕まえている。今度の少し太い人影は静かだった。
ふらふら、ふらふらと。縄を打たれているわけでもないのに、おれはおとなしく鬼の後を追った。エレベータを使う前に、ちらりと鬼はこっちを見た。だが、逃げようとするそぶりが一切見られないおれの姿に安心したんだろう。一つうなずくと、あとは放っておかれた。
促されるままに建物を出たところで、手首をくくられた。映画で見た奴隷商人に連れられた商品みたいに、他のひとたちとひとまとめにされる。端を握った鬼が、きりきり歩けと槍をふりまわしたので、おれたちは少しおびえてから歩き出す。
久しぶりの外はとてもまぶしかったから、おれは久しぶりに先生やクラスメイトたちのことを思い出した。多分みんなもう生きてはいないんだろうなと思うと、少し悲しい気がした。
fin.