いったいこれはどういうことだ。おれは今何をやっているんだ。これは何の茶番で、いつさめる悪夢なんだ。
実家の座敷で、槻賀多弾は混乱の極みにあった。
目の前には厳しい顔をした妹がいる。右には黒衣の書生――もとい、デビルサマナーが、背筋を伸ばしていた。
「承知いたしました」
その言葉は、ごく当たり前のように妹の唇から滑り出た。葛葉ライドウこと黒衣のサマナーがまとっていた厳しい気がほんの少し緩む。彫刻めいた白晰の美貌の口元がほんの少しほころんだ。
「ライドウさんならば安心です。どうか兄をよろしくお願いいたします」
そう言って、茜は深々と頭を下げた。ライドウもまたありがとうございますと頭を下げる。交渉成立のあらまほしき風景だった。弾だけが呆然と二人を見ていた。そう言えば黒猫はどこへ行ったんだ、いや、ここに連れてくるはずはなかったかとやくたいもないことを考える。茜は本当にライドウが口にした言葉を理解しているのか。いや、理解しているのだろう。彼らのやりとりは、明らかにそれを理解したものどうしのものだ。
そう。ほんのしばらく前。殺気にも似た真剣さをもって、葛葉ライドウは茜に頭を下げたのだ。お兄さんを僕にください、と。
ライドウさんのご親せきにもご挨拶に行かないといけませんねえ。やはり帝都でいらっしゃるのですか? 血のつながりと言うならば天涯孤独の身、今は所長が親代わりのようなもので。あらまぁ、それはきっとご苦労なさったのでしょう。いつごろお伺いすれば。それにはおよびません。いやいや。いやいや。
ころころと笑いながら話を進めていく二人の様子に、やっと弾は我に返った。どういうつもりだ、意味がわかってて言ってるのか茜おまえは! そう口を開こうとした瞬間、茜の澄んだまなざしが弾をとらえた。ああ、昔からおれはこの目に弱かった。すっかり大きくなっても、この目だけは変わらないんだな茜。まるで走馬灯のように、小さい頃からの茜の姿が脳裏を駆けめぐる。
すっかり気勢を制された形となった弾の無骨な手に、茜はそっとしらうおのようなそれを重ねた。
「兄ちゃん、よかったな。これでうちも安心じゃ。槻賀多の家はうちがしっかりまもっていくけぇ、兄ちゃんはライドウさんとしっかり幸せになるんじゃ」
潤んだ目で茜は弾の顔を見上げた。そうだ。ほんの幼い頃から茜はそうだった。自分はええから、兄ちゃんが、兄ちゃんが、と。幼子ならば、やれあかいべべが、それまんじゅうがと争うものだ。長男と娘の扱いの違いと言うのもあるのだろうが、茜は昔から弾のわがままを聞き入れてきた。それも喜んで。そう、長じてからの弾は常日頃、それがいとおしくも歯がゆく思っていたのだ。
今もまた、長男の役割を放棄しようという弾のふるまいを許すどころか、喜んで送り出そうと……違うだろう!
ライドウさんがいくら優しいからいうて、いままでみたいに我がままばかり言うとったらいけんよ。兄ちゃんはほんに言葉が足りんところがあるし、人がどう思うかとかに鈍感すぎるとこがある。そういうんは、思い込んだら絶対に何とかするっちゅう兄ちゃんのいいとこの裏側やけど、これからは一人じゃないんやから、少しはまわりを気にしてな。
ありがたい妹の説教がいつまでも続く。そのうち五歳の頃の寝小便についてまで言及されそうな勢いだった。
ちょっとまて茜、オマエはそれでいいんか! この家は自分がしっかり守っていくの方じゃなくてそれ以前の部分で!
かき集めた気力を顔面に集め、やっとこさ弾は茜の話をさえぎるための表情を作り上げた。そして。茜、と。名を呼ぼうとした瞬間、茜はついと目をそらした。そして。
「ほんに至らぬところの多い兄ですが、ライドウさんほんによろしうお願いいたします」
ライドウに向き直ると、茜は目元をしとやかに拭った。
「だめですね、おめでたい話なのに。でもうち、嬉しうて嬉しうて」
兄の幸せを我がことのように喜び、涙さえ浮かべる姿に、弾は胸が詰まるのを感じた。それはそのまま喉もとをふさぎ、声をあげるのを妨げる。
お式が、その前に結納が。近頃は省略するのも流行のようですが、やはり槻賀多の家としては。ご心配なさらず。我がままを申して。こちらこそ大事なお兄さんを。いえいえ。いやいや。
ゆるゆると弾は片手をあげた。二人を制すつもりだった。気づかれた様子はなかった。
「茜ぇ……」
「兄ちゃん、自分のことやろ? ライドウさんにばかりおまかせするんやのうて、ちゃんと考え」
浮かべた涙はどこへ行った。いや、おめでたい話だからこそすばやく切り替えたか。眉を寄せて、茜は弾をたしなめた。
むしろ自分の我がままを弾さんがどれだけ受け入れてくれるかの方が心配ですよと、ライドウが助け船を出す。狸の泥船と良く似た代物だった。
柳眉をよせる茜。白晰の美貌に穏やかな笑みをたたえるライドウ。ああ、おにあいだよなぁ、普通はこうだろう。
「……茜」
「もう、兄ちゃんは茜、茜いうて、うちじゃのうてこれから頼るのはライドウさんじゃないけ」
精いっぱい話の腰を折ったつもりのそれも、あっさりと流れのうちに解釈された。いやもしかして、本当にお似合いなのではないか。しっかりものの妹とこの美貌のサマナーは。
だが、今、サマナーにもらわれていこうとしているのは自分なのだ。
なんで?
結納の品目の確認が終わり、お式の形式、嫁入り道具についての計画が語られた。さらには、お式の後少し二人で旅に出たいなんて話までしている。ていうか今すぐ旅に出たい、出るべきじゃないか一人で、と。弾はつけいるすきのない会話をなんとかさえぎろうと、中途半端な位置で手を揺らしながら考えた。
なんとなく無理な気がした。葛葉ライドウ、そして槻賀多茜が相手なのだ。無理、多分無理。
ずぶずぶと、あり得ない深みにはまっていく自分を感じながら、弾はなんとかして二人の会話に割って入れないだろうかとあがき続けた。
fin.