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雪華埋葬

 雪景色を見ながら露天風呂につかる。あいにくの曇り空で、月の光を見ることはできない。だがその代わり、真っ暗な空からはちらほらと白い雪の欠片が落ちてきた。
 これで、目の前に徳利とお猪口が乗ったお盆でも浮いていれば、へたくそな秘湯めぐりの記事にでもなるだろうか。自らのそんなくだらない思いつきに、皆守甲太郎は口元を歪め、てのひらで顔を拭った。
 日本全国、有名無名を問わなければ、温泉が湧く場所というのはいくらでもある。彼が今滞在していたのは、長野県と新潟県の境にあるそれだった。有名な温泉街というわけではなく、スキー場からも遠い。なにせ、近隣にはコンビニエンスストアすらないのだ。長野オリンピックの頃に多少は道路が整備されたとはいえ、公共交通機関もほとんどない。日に数本のバスが訪なう程度の場所は、知る人ぞ知る秘湯というよりは、たまたま()温泉宿のある村というほうが正しいだろう。実際、宿の利用者はほとんどが常連で、同県内の老人会の慰安旅行ばかりであった。
 とはいえ、泉質は悪くはない。ちらつく雪すらも心地よいほどに、身体はしっかりと温まっていた。のぼせる前に部屋に戻るか、と。そう考え、皆守は立ち上がった。
 本来ならば、宴会場からできあがったヨッパライのだみ声が響いているような時間帯だ。だが、今宵の宿泊客の中には、カラオケや素人芸で親交を深めようとするタイプは含まれていなかったらしい。掃除こそ行き届いているものの、かなりに古びた廊下は、しんと静まり返っていた。
 部屋の襖をあけると、ようおかえりと待ち構えていたかのような声がかかった。
「先にやってるぞ」
 夕薙大和はそう言って、半分ほどコップに残っていたビールを飲み干した。
「こーちゃんも、まあ、かけつけ一杯ってとこでどう?」
 あいていたコップとビール瓶を手に、葉佩九龍が誘う。特に拒否する理由もなく、着慣れない温泉の浴衣姿であぐらをかくと、皆守は差し出されたコップを受け取った。
「しかし、オマエもよくこんな場所を知ってたな」
「ああ、おれもそう言っていたところだ」
 薄い泡を崩さぬよう、そっと一口すすっての皆守の言葉に、夕薙が大きくうなずいた。
「そして、何だってこんな山奥で――」
 二人からの何か含みのある視線に、葉佩はただにひひと怪しく笑う。オマエ、と。口を開きかけた皆守を制すかのように、葉佩はええとと声をあげた。
「この手の山奥の村って言うと、こう、落人の里ってのがよくあるパターンだよね。あとは、殿様お気に入りの隠し湯があってそれを世話するために小さな村ができる、と。隠密の里となってくると、そろそろ劇画か伝奇小説の世界かなー、なんて」
 唐突とも言える葉佩の解説に、皆守と夕薙は顔を見あわせた。それで、と。いささかの戸惑いも含みで先を促したところ、葉佩はさきいかをくわえもぐもぐとやったあとに、違うんだなと言った。
「違う? 何がだ」
「ここってさー、温泉はあるけど時の大名が愛用してたわけじゃないし、落人の隠れ里でもないのよ」
「……じゃあ、なんだってこんな不便な場所に村なんてあるんだ」
 思わせぶりな葉佩の態度に、皆守は眉を寄せる。その表情に気づかぬはずもないだろうが、秘密、と、葉佩は言い切った。
「おいこら、どういうことだ」
 不機嫌な皆守の様子も、あきれた調子で肩をすくめる夕薙の様子も、どちらも気にする様子なく、葉佩はただ、秘密秘密と妙なふしをつけて歌った。そして、三人の間におかれたビール瓶を手にとると、一センチほど底に残っている自らのコップに注ごうとする。だが、濃い茶色のガラスビンからは、ほんの一滴、泡ともなんともつかぬものが滴り落ちてきただけだった。
「っちゃー、冷蔵庫にあったっけ?」
 半ば独り言のようにそう呟くと、葉佩は腰を浮かせる。部屋に備え付けの小さなそれの前にしゃがみこみ、中を覗きこんだ。何かのむ? コーラとオレンジジュースもあるよ、と。背後の二人に声をかけながら、濃い茶色のビンを一本取り出した。
「残り一本だけどね」
 特にリクエストがないのを確認してから、葉佩はもとの場所に戻る。あけたてをまずとか、いやいや手酌はよくないとか、サラリーマンの忘年会のごときやりとりをしてから、にひひと楽しそうに声をあげる。
「うちあげなのよ」
「うん?」
「ひみつ、ひみつ」
 とてもそう()とは思えない表情で笑いながら、葉佩は新しく注いだビールを一息に飲み干した。


 目がさめて最初に皆守が気づいたのは、古いエアコンの動作音だった。完全に部屋が暖まっているとは言いがたい。が、震え上がるほどの室温でもなかった。手を伸ばし確認した携帯電話には、七時の表示がある。ぎゅっと目を閉じ、さてどうするか考えていた皆守に、起きたのか? と夕薙が声をかけてきた。
「九ちゃんは?」
 そう尋ねつつも、身を起こし部屋の様子を確認する。確かめるまでもなく、残りひとつの布団がこんもりともりあがっていた。
「うちあげだと言っていたからな」
 疲れているのだろう、と。そう言って夕薙が肩をすくめる。朝食は何時までだったか、そろそろ起こしたほうがいいだろうか、と。そんな他愛ない会話を交わしつつ、軽く浴衣の前をあわせなおし、布団から出る。昨晩は、飲んだとはいえ、ビールをほんのコップに数杯だ。酒が残っている気配はなかった。
「朝食か」
 何年ぶりなんだかという皆守の言葉に、夕薙は不健康だと言って笑う。ただ肩をすくめた。
 結局、朝食の時間までに葉佩は起きなかった。食べるにしろ食べないにしろ、確認だけはとるべきか、と。八時十五分になったところで、皆守と夕薙は葉佩を起こすことに決めた。
 葉佩は起きなかった。
 穏やかな寝顔だった。いい夢を見ているようにさえ見える。だが。強く揺すろうが、耳元で声をあげようが、ほっぺたをつねろうが、規則正しい寝息のリズムが乱れることはなく、まぶたが震えることもない。
「すみません、お客さん。そろそろ朝ごはん終わりですけど、どうされますかー?」
 のんびりとした旅館の人の声に、皆守と夕薙はびくりと身体をふるわせた。そして、どちらからともなく相手の表情を伺い、頷く。ああすみません、今片付けます、と。そう言って、夕薙が腰を浮かす。
「甲太郎、オマエも早く来いよ」
 何やら旅館の人と話しながら部屋を出て行く夕薙に対し、皆守は小さく頷いた。すぐに、それでは見えないだろうと気づくが、すでに夕薙の姿はない。
 皆守は再度葉佩に視線を戻した。九ちゃん、と。小さく唇が動く。
 葉佩は眠り続けていた。


 他の泊り客は、すでに済ませた後なのだろう。食べ終わった食器が残っているテーブルはあったが、他の客の姿はなかった。
 一人鍋の固形燃料に火をつけに来た従業員に、自分と夕薙の分だけを頼み、割り箸に手を伸ばす。
「朝からずいぶん豪勢だな」
 そうこうしているうちに、風邪薬らしきビンを片手に、夕薙が現れた。興味深げに揺れる炎を見ながら向かいに座る彼に対し、皆守は湯豆腐だそうだと簡単に答え、箸を動かした。
「で?」
「あとで、医者を呼んでくれるらしい」
 割り箸を手に、いただきますと頭を下げてから、夕薙は皆守にそう答えた。
「医者って、大丈夫なのか?」
 眉を寄せる皆守に対し、ただ夕薙は肩をすくめる。そして、古くからの診療所の医者だそうだから、もしかすると似たような状態を知っているかもしれない、と。あまり期待していない様子をみせつつ、わさび漬けに手を伸ばした。
「例のなんとかってところに連絡がつくのが一番なんだがな」
 仕事()ということは、と。言葉を濁す夕薙に、皆守は黙って頷いた。
「――おれたちの時と同じなら、例の情報端末(H・A・N・T)を持ってきているんじゃないか?」
 だとすれば連絡も取れるだろうという皆守の言葉に、夕薙は眉を寄せつつもやってみる価値はあるかもしれないと口にした。
「どうした?」
「パスワードの一つもかかっているだろうと思ってな。それはそれとして、おれは旅館の人に滞在中やつが何をしていたのか聞いてみる」
 確かにもっともだと夕薙の言葉に頷き、皆守はではこちらは荷物を確認すると宣言する。
「トラップがないことを祈ろう」
「全くだ」
 以降彼らは黙って箸をすすめた。おかわりはいかがですか、食後のお茶は、と。親切な従業員に礼を言い、葉佩はずっと泊まっていたのかと雑談する。
「毎日お出かけでしたからねぇ。昨日一昨日も、吹雪だから止めておいたほうがとお止めしたんですけど」
 こんな日にこそいい絵が撮れるのだ、と。そう言って出かけてしまったのだと、愛想のいい従業員のオバちゃんはそう言ってためいきをついた。昔からそうなのだと調子を合わせながら、夕薙は葉佩がどこにでかけていたのかと探りを入れる。
「どことは仰っていませんでしたけど、一度、近くの廃村を見てきたとは仰ってました」
 廃村とはいっても、夏の間はキャンプ場のようになっていてきれいなものだ、と。その言葉に、大げさなほどに夕薙は頷く。
「キャンプ場があるんですか。このあたりだと、夏は涼しいでしょうねぇ」
「ええ、県内の小学生が、ボーイスカウトや何かで、必ず来てるんですよ。囲炉裏のある旧家に泊まれるというのも面白いらしくて」
「そりゃあすごい。僕も夏に来てみますかね」
「ぜひいらしてください。何もないところですけどね、静かに過ごすにはいいところですよ」
 何でしたら、後で女将さんにでも詳しく聞いてください、と。愛想のいい彼女に礼を言うと、二人は腰を浮かせた。ごちそうさまでしたと口にし、広間を出る。部屋までの短い間を歩きながら、皆守が口を開いた。
「何で起こしてくれなかったんだって、奴が拗ねてる気もするんだがな」
 祈りにも似たその言葉に、ああそうだなと、夕薙はただそう言って頷いた。


 やはり葉佩は眠ったままだった。
 では自分は女将さんに詳しいことを聞いてくる、と。すぐに夕薙は部屋を出て行く。皆守は逡巡することなく、押入れを開け放った。旅館に泊まっているのだから、本来ならば朝晩と布団の上げ下ろしがあるはずだ。だが、昨晩、葉佩は長期滞在を理由にそれは断っていると言っていた。だから、昨晩も、まるで修学旅行生のように自分たちで寝床を整えたのだ。
 押入れはほぼ空だった。下の段の片隅に、登山用とおぼしきリュックがおかれている。手を伸ばし、引く。特に問題なく、それは外に出てきた。
 すぐに、高校時代何度もお世話になった情報端末(H・A・N・T)が出てくる。いささか無用心な気もするが、本来手放すものではないのだからこの程度でいいのだろう。そう考えながら、皆守は薄いそれを開いた。
 高校時代、葉佩がそれを開けばすぐに明るい画面が表示されたものだった。だが。皆守が開いたそれは、ただ沈黙を守っていた。
 画面に触れる。キーボードを叩く。何かスイッチはないかと側面や背面を確認するも、特にそれらしいものはない。
「……駄目か」
 自らの主ではないものの手にあると知っているのだろう。それは、まるで店頭のクールモックかなにかのように沈黙を保っていた。
 もしかして偽物なのではないかと、さらに荷物をあさる。だが、出てくるのは、衣類やピルケースなどの、一般的な旅行客が持っているようなものばかりだった。
「後は……」
 皆守は部屋の中を見回した。そして、貴重品用の小さな金庫を見つける。鍵のかからない旅館の部屋でよく見かける小さなそれだった。そういえば昨日、風呂に行くときにも利用しなかったなと思い返しながら手を伸ばす。だが、当然といえば当然か。ガチリと硬い手ごたえがあるばかりで、扉が開くことはない。近くにある説明書をもとに、初期状態の暗証番号を試してみても無理だった。
 葉佩であれば、この手の金庫の一つや二つ、針金かバールのようなもので容易にあけることができるだろう。だが、皆守はごく普通の一般人だ。金庫破りの能力はない。ひとまずそちらはあきらめ、再度葉佩の荷物を確認することにした。


 大きな収穫もないまま、リュックを元の場所に戻したところで、夕薙が戻ってきた。
「何か見つかったか?」
 駄目だと首を横にふる皆守に、そうかと頷くと、彼は借りてきたという地図を差し出した。
「例の廃村ってやつだが、近いって言うほど近くはないな」
 車で十五分ほどだそうだ、と。そう言って夕薙は、地図を広げる。そして、旅館の場所から県道を指でたどってみせた。
「その反対側に三十分ほどでスキー場、二時間も行けば親不知の海岸線だ。九龍が行くとすれば――」
「どれ、とも言いがたい、が。スキー場方向ならば、もっと近い宿がいくらでもあるだろうう。海岸も同様だ」
「スキー場はオンシーズンだ。ただ、宿が取れなかったとは考えられないか?」
 皆守は無言でテレビをつけた。折よく天気予報が流れている。今晩は雪になる模様、ようやくのスキー場再開が期待できると、アナウンサーが弾んだ声で言っていた。
「温暖化だな。ここ数年は、このあたりのスキー場は惨澹たるありさまだそうだ」
 そのうちウィンタースポーツは北海道でしかできなくなるのではないか、と。そう言って皆守は肩をすくめた。
「冬休みとはいえ、バブルやオリンピックにのっかってできたリゾートマンションも余りまくっているという話だから、一人ぐらいどこかにもぐりこめるだろう。それに、どうやらここを見ている限りでは、大した拠点を作っていたようでもない。なんなら、一週間ごとに引っ越しもありなんじゃないか? わざわざ離れた場所の日本旅館に来る理由よりはよほどいい」
 仕事()のためのやどであれば、温泉や食事よりも、カギのかかる部屋や長期滞在を怪しまれない客層の方が重要だろう、と。皆守の言葉に、夕薙は大きく頷いた。
 では、と。二人が頷きあったところで、失礼します、と、外側の扉が開く気配があった。夕薙の応えに、意外なほどに若い女将があがりかまちの襖をあけて姿を表す。
「先生がおつきになりました」
 ああ、ありがとうございます。よろしくおねがいします、と。そう言って、夕薙が黒い診療鞄を下げた白髪の医者を招き入れる。ご心配ですねと言葉を残して出ていこうとする女将を、皆守が呼び止めた。
「あの、すみません。その……」
 保険証と財布を貴重品入れから出したいのだが、出せなくなってしまった。マスターキーなどはないだろうか、と。そう尋ねる皆守に、女将は怪訝そうな表情になった。寝込んでいる葉佩が設定した暗証番号ならば、ただ何番だと尋ねればすむ話だ。寝込んでいたとしても、それくらい普通は答えることができるだろう。わざわざマスターキーなど使う理由はない。
「その、昨日、彼ではなく自分が設定したんです。寝ぼけていたのか、覚えているのとは違った番号が設定されてるらしくて……」
 おかげで中のものが出せなくなってしまったのだという皆守の言葉に、なるほどと女将は頷いた。そして、それはお困りでしょうと眉を寄せる。
「わかりました、おあけしますからしばらく待ってくださいね」
 きびきびと立ち去る後ろ姿を見送り、皆守はほっと息をはいた。


 女将を見送ったところで、葉佩のもとに戻る。当然と言えば当然の話だが、難しい表情で医者が葉佩の容体を確認していた。脈をとり、まぶたをひっくり返す。浴衣を寛げて、聴心器をあてる。各所を抑えてみる、さらには声をかけてみる。されるがままの葉佩に、通り一遍の診察を行い、医者は首を横にふった。
「ただ、眠っているだけだけだと思えるのですが、と」
 夕薙はそう葉佩の容態を説明した。夕食をとり風呂に行き、軽くビールを飲んで寝ただけ、特に変わったことはなかったはずであると。
「僕も彼も同じビンのビールを飲んでいます」
 そう言って、部屋のテーブルにおきっぱなしのビールビンをさす。傍らには、つまみにしていたさきいかが少し残っていた。
「それに、隣に寝ていたわけですから、彼に何かあったとすれば気づかないはずがない」
 夜中苦しんでいたり、暴れていたりする気配はなかったという夕薙の言葉に、医者は大きく頷いた。
「確かに、今見た限りでは眠っているだけのように見える。だがしかし――」
 なぜ起きない、と。医者の言葉に、夕薙と皆守は頷く。そして、朝方、つねってみたのだが起きなかったとつけくわえた。
「嘔吐の後を片づけたりしたわけでもないんだね?」
「何も」
「……だろうな」
 脳溢血や心臓麻痺などであれば、もしくは――彼らが何らかの薬物を飲ませたりしたというのであれば、もっと別の症状もでているはずだ。片付けの有無をたずねたのは、単なる確認に過ぎなかった。渋い顔で医者は眉を寄せる。そして、ため息をつくと二人に向きなおった。
「彼は最近このあたりを毎日のようにうろうろとしていたそうです。――その、昔からこのあたりで、このようなことは……」
「このようなとは?」
 夕薙の問いに、医者は眉を寄せた。
「いえ、近づいてはいけない場所に足を踏み入れると、こう、眠ったままになるとか」
「何を馬鹿なことを言っている。とにかく、このままでは大した検査もできない。年末でどこも難しいだろうが、近くの病院に連絡をとってみよう」
 何か変なマンガでも読みすぎじゃあないのか、と。手厳しい否定に対し、彼らは申し訳ありませんと素直に頭を下げた。続いて、病院の手配に対し、礼を言う。彼の名前はと尋ねる医者に対し、ほんの一瞬彼らは逡巡した。しかし、何か他の選択肢があるわけではない。葉佩九龍、と。そう告げたところで、失礼しますと女将さんがもどってきた。
「先生、お客さんはいかがですか?」
「ああ、寝かせておくにしても大変だろう。県の病院に連絡をとってみるよ」
 そのうち迎えに来てもらうか送っていくかするから、と。医者の言葉に、女将は丸い目をさらに丸くした。
「何か大変なご病気では……」
 心配そうに眉を寄せる女将に対して、いやあと医者は片手をふってみせる。
「万が一悪くなっても、ここでは風邪薬くらいしか出せないからなぁ。だったら、最初から病院の方が安心だ。本当なら、今日もわしがついているべきなんだが、年内最後の往診が残っててな」
 爺さん婆さんたちの無事を確認しないと年が越せない、と。そんな医者の言葉に、夕薙と葉佩はお手数おかけしますと頭を下げた。
「助かります」
「帰りに寄ろう。その時までには、病院の手配もついているだろう」
「よろしくお願いします、先生」
 携帯電話を取り出し、医者は何やら番号を確かめはじめる。そして、近隣の病院の連絡先を探しながら、女将に何か用があったのではないかと尋ねた。
「ああ、そうですよ。大変ですねぇ、でも皆様がいらっしゃって本当によかった」
 今おあけします、と。そう言って、女将は部屋のおくの金庫へと向かう。
「部屋のほうは、その。彼がこんな状態なので、しばらく滞在させていただきたいのですが大丈夫ですか?」
「ええ。ただ、申し訳ないんですけど、年末年始なので少しばかり行き届かないことはあるかもしれません」
「はい、こちらこそご無理を言って申し訳ありません」
 そんな会話を交わしながら、女将が懐からとりだした鍵を金庫に使うのを眺める。鍵穴にマスターキーをさしこみ、ひねったところで、小さく悲鳴をあげて女将は手を引いた。
「どうされました?」
「いえ、大丈夫です」
 静電気かしらと首をかしげながら、女将はマスターキーを見下ろした。
 押入れの中から、何やら音がした。この場に似合わぬほどに明るくテンポのいい曲が、押入れから鳴り響く。おやと不思議そうに皆がそちらを注視した。
「ああ、彼の携帯です」
 そう言って、皆守は押入れをあけ、中に頭をつっこんだ。実際、音源は葉佩のリュックの中だ。おそらくは情報端末(H・A・N・T)だろうと荷物をあけた。
「あきましたよ」
 女将の声に、情報端末(H・A・N・T)を取り出すのはやめ、皆守は押入れから顔を出す。いつの間にか、着信音らしきメロディはやんでいた。
「ありがとうございます、助かりました」
「もう忘れないでくださいね」
 早めに再度番号を設定してくださいの言葉には、すぐにでもと
「こちらも、今日の十八時に県立病院から迎えが来るそうだ」
「あら、何でしたらお送りしますのに」
「向こうも年末でな、緊急外来が大賑わいらしい。急変の兆候がないのなら、少し待ってくれという話だ」
 なるほどと頷き、皆守と夕薙は双方に助かりますと頭を下げた。
 迎えが来るまでには戻ってくると言って、医者は年内最後らしき往診へと向かった。これからを相談しようと女将を送り出し、部屋の扉を閉める。締める直前、女将がつぶやいた言葉が聞こえた。午後から天候が崩れるらしいけれど、大丈夫かしら、と。
 そういえば、先ほどつけたテレビで、そんなことを言っていたなと彼らは考えた。


 そういえば情報端末(H・A・N・T)の様子はどうだったかという夕薙の問いに、皆守は首を横にふった。
「予想通りだ。電池(バッテリー)切れってことはないだろうから、プロテクトだろうな」
 パスワード入力を求める画面すら出てこないという言葉に、やはりかと彼は頷いた。
「それで、他にめぼしいものは?」
「ないから金庫をあけてもらった」
 そう言いながら、皆守は鍵の開いた金庫をあけ、中を確認する。ダミーか本物か定かではないが、セカンドバッグが一つ中に入っていた。中には、財布とカードが何枚か。ごく普通の旅行者のもののように見えた。
「保険証は?」
「さすがに偽造はしていないようだな」
 医者の世話になるくらいなら、例の協会に連絡をとるんだろう、と。皆守の言葉に、だろうなぁと夕薙は頷く。しかし、それはそれで困った、と。彼の言葉に頷きながら、再度皆守は金庫の中を覗きこんだ。
「まだ何かあるのか?」
 財布の中を改めていた夕薙が、不思議そうにそう尋ねた。
「さっきのは、おそらくトラップと警報だ。財布だけにしては念が入りすぎている気がしてな」
 そう言って狭い金庫の中全体を、てのひらで撫でた。
「――!」
 皆守の表情が変化する。それを見て取り、夕薙もまた金庫を注視した。
「何か、上にはりついて……」
 指先の違和感を頼りに、金庫内を探る。なにやら、丸いものがセロテープか何かでとめられているようだった。
「ただのトラップかもしれん」
 気をつけろ、と。夕薙の言葉に頷きつつ、皆守は指先でそれをはがした。
「……これは?」
 それは一枚の古びたコインだった。日本の古銭ではない――いや、どこの国の古銭にも見えなかった。皆守は、顔をしかめた。金庫の中にはりつけてあっただけにもかかわらず、それは異様な冷たさだった。てのひらの上にのせているだけで、その形の場所だけ、冷えて腐り落ちていくような感すらある。
 二人は息を飲んだ。これか、と。皆守のかすれた声に、だろうと夕薙が答える。
 いつの時代のものとも知れぬそれには、人型によく似た何かが彫られている。もっとも、長い年月、どれだけの人の手を経たものか、それはほとんど磨耗しきっていて大まかな形がわかる程度だ。まるで、丸と棒で描かれた人型のようだった。
 ぐっと皆守はコインを握り締めた。そして。
「おれは今から、例の九ちゃんが向かったという廃村に向かう」
「ならば」
「いや、九ちゃんが倒れているんだ。二人ともいなくなるのは不自然だ」
 買出しに行くとでも言って出るさ、と。皆守の言葉に、不安げながらも夕薙は頷いた。
「本当にそこかはわからない、が。他に手がかりもない」
 コイツがヒントになればいいんだが、と。皆守はそう言って、握り締めたてのひらを見下ろす。てのひらは、今すぐにでもそれを放り出したがっていた。ほんの少し油断するだけで、熱くなった石炭でも掴んだみたいに、自らの意思とは無関係にそれを放り出してしまうだろう。
「……これから、夜にかけて天候も崩れるという話だ。気をつけて」
 夕薙の言葉に頷き、皆守は腰を浮かせた。


 不自然ではない程度の荷物で、外に出る。いかにも寒がりですといった様子で、ダウンのコートを着込み、バッグの中に使い捨てカイロや懐中電灯をしのびこませた。吹雪になる前に帰ってきたほうがいいですよという忠告をありがたく受け取り、細い山道をなれないレンタカーで走る。タイヤに巻かれたチェーンの規則正しいごつごつという振動が、運転に対する集中力をそぎ、厄介だった。
 吹雪というほどではないが、雪は強くなり始めていた。
 対向車が来ないことをひたすら祈りながら、行けるところまで車を進める。集落が途切れ、ほんのしばらく行ったところで、通行止めの標識と雪に行く手を阻まれることとなった。
 除雪の行き届いていない道は、Uターンするのも危険な様相を示していた。正直なところ、ここに用のある人間――葉佩と同じ目的を持つもの以外がいるとも思えなかった。だが、帰りのことも考えて、かろうじて除雪されている――というよりはむしろ、除雪車がUターンしたのだろうと思われる退避帯へとバックする。車の向きを変えて止め、皆守は外に出た。
 夏場であればちょうどいいハイキングコースといった道のりだろう。だが、除雪のなされていない雪道ともなれば、話は違う。皆守が言及したとおり、温暖化なのかなんなのか、十年前に比べれば雪はずいぶんと少ない。だが、スキー場オープンには足りずとも、歩くのに不自由な程度の雪はあった。
 携帯を確認すると、問題なく電波が来ていた。おそらく、夏場にはキャンプ場になるからだろう。一つ頷くと、皆守は、ひどく歩きにくい道へと足を踏み出した。
 葉佩がここに調査に来ていたのだとしたら、足跡の一つでも残っているのではないだろうか? だが。雪が解けては積もりを繰り返しているため、足跡が残る暇がないためか。それとも、葉佩の目当てはここではなかったのか。
 雪が降っていて曇り空とはいえ、まだ午後も早く、懐中電灯は必要ない。夏場は普通に車が通る道だけあって、獣道というほど歩きにくいわけではない。ただ、関東で生まれ育った皆守にとって、雪が積もった道というのは十分に不自由な代物だった。
 注意深く、路肩に足を踏み入れないよう、道の中央を歩く。少しずつ、落ちてくる雪の一片が大きくなりつつあった。坂道の下に、古い民家の影が見えてきたところで足を止めた。止めると同時、正面から誰か()が歩いてくることに気づいた。真っ白な中に、墨汁を落としたみたいな人影だった。
 隠れるという選択肢は難かった。戻るか、それとも。
 確かにここは通行止めだが、除雪がなされていないという意味のそれであって、入ってはいけないという意味ではないはず。実際、夏場はごく普通に人の出入りがあるのだ。
 そう自分に言い聞かせ、皆守は再度歩き始めた。
 すぐに、二人は出会った。真っ黒なロングコートを身に着けた青年だった。雪盲対策だろうか、濃い色のサングラスを身につけている。コート、ボトム、手袋、すべて墨汁みたいな黒だ。ただ、露出した肌だけが、雪の白さだった。
「この先は危険だ」
 足を止めた青年は言った。作業員や警備員の類には見えなかった。
「通行止めになっているのは知っています」
 表情を取り繕うと、皆守はリュックからカメラを取り出して見せた。一眼レフのデジタルカメラ――葉佩の荷物から拝借したものだった。青年は首を横にふる。そうじゃない、と。
「帰りなさい」
「……崖崩れでも起こっているのですか?」
「――」
 青年は、じっと皆守を見つめていた。サングラスをしていても、視線の力が痛いほどだった。
「この先に来てはいけない。もし――」
 皆守は、青年を避け、カメラを廃村へと向けた。
「ううん、いい画がとれそうなんですがねぇ」
「折角とれた画は人に見せたいだろう?」
 かしゃり、と、作られたシャッター音が響く。青年が、素早く片足を引いた。皆守は、シャッターを切った姿勢で動きを止める。息詰まるような沈黙が落ちる。ゆっくりと、皆守はカメラを下ろした。そして、青年に向きなおった。
「わかりました、帰りますよ」
 やれやれ、ご親切にありがとう、と。おもねるような口調で言い、肩をすくめる。
「それがいい」
 鋼のごとき声だった。皆守はカメラをしまいこむ。青年に背を向けるのがひどく嫌だった。だがそれでも、ゆっくりと、彼に背を向けた。背を向けなければ、元の道をたどれない。じりじりと首筋の辺りの皮膚があぶられているような気がする。この寒さの中、じっとりと汗すらもにじんできそうだった。ざくり、と、自らの足音が響く。他の足音はない。ざくり、ざくり、と。数メートル進んだところで、皆守はふりかえった。ひどく勇気のいる動作だった。
 誰もいなかった。人影すらもなかった。真っ白な雪景色の中、黒衣はひどく目立つように思われるというのに。
 唇を引き結び、再度踵を返す。ざくざくと、二度と振り返ることなく、彼はもとの道へと急いだ。

To be continued...