無理を強いられた革張りの椅子がきしんでいた。恰幅のいい成金の身体をもゆったりと受け止めるはずのそれも、成年男子一人と半の重みを受け止めるは、いささか難事なのだろう。
もっとも、そのきしみは限界を主張する悲鳴というほどのものではない。むしろ――広くはない事務所に淫猥な空気を満たす雑音(ノイズ)に過ぎなかった。
やや冷たい、と。日常ではありえない距離に近づき、触れ合った頬の温度を、鳴海はそう感じた。白皙の美貌が間近にある。年齢的には、紅顔の美少年といったほうが相応しいのだろうが、顔(かんばせ)はただ白く、人形めいた印象を持つほどに、血の気が薄い。ただ一点、唇だけが、苦界の女を彩る紅のように赤かった。
しっとりと濡れた唇の感触は、幾多の女から感じるそれと変わることはない。だが、甘く苦い紅の味わいはない。ただ、自分より低い温度と、水の味だけを感じた。
また、椅子がきしむ。
鳴海は、目を閉じた。
乾いた掌が、頬を撫でた。シャツのボタンを外す手付きは、おそらく、どこまでも丁寧なのだろう。見てはいなくとも、容易に想像はついた。微かな絹ずれの音が不規則に響く。唇を寄せてきたのだろう。空気の動きと湿気、そして温度。急所(くびすじ)に感じる、生物の(あたたかな)気配。ぬめった感触が首の筋を滑り、身体がぴくりと反応した。
薄目をあけると、斜め下に、埃にまみれた学帽が見えた。
ぐるりと、視界でそれがまわる。鍔の下から、やたらと光の強い目が見上げてくる。
階上を歩き回る音。外を行きかう子供たちの歓声。物売りの声に、ご婦人方の笑い声。
様々な喧騒が、すぅっと遠くなる。不自然なほどの静けさの中、きぃ、と、硝子をひっかくような微かな音が響いた。
「なぁ」
瞬き一つせずに見上げてくる目は、どこか獣の無表情を思わせる。しばらく前までいついていた黒猫に良く似ていた。
「いるのか?」
何が、とは問わない。
きぃきぃと。ただ、不規則に。神経(カン)に障る、その音色ばかりが聞こえる。
独奏(ソロ)から、二重奏(デュオ)、三重奏四重奏(トリオカルテット)。音量はそのままに、響きが複雑さを増す。それは、不思議なほどに、現在の事務所の静けさを強調し(つよめ)た。
不意に、ライドウが動いた。先ほどまでの静謐が嘘のような激しさだった。
求めてくる温度の低い舌に、鳴海はただ応えた。
規則的な律動に犯される。椅子の声は、そろそろ悲鳴に近づいていた。その甲高い音(こえ)の合間に、椅子と机が当たる鈍い音が響く。
漏れた吐息を吸い取る接吻。苦しさに指先をつきたてると、氷の肌にミミズ腫れが走る。濡れた朱色に舌を伸ばすと、身体ごと引き寄せられた。内部をえぐるものの角度が変わる。また、嬌声があがる。
衣服の乱れは最小限に抑えた。名は呼ばず、ただ獣のごとき意味のない音(こえ)をあげる。互いの荒い呼吸音を聞きながら、危ういバランスで逐情の時を先へと伸ばす。伸ばしながらも、容赦なく相手と自らを高めていく。
その矛盾した行為(おこない)をあざ笑うかのような気配が、部屋に満ちる。
硝子をひっかく音がする。地震でもないのに、外套かけが揺れる。壁が斜めに傾き、頭上から降ってくるみたいな幻覚すら感じ(みえ)た。
「なぁ」
鳴海は口元を歪めた。そして、少し高い位置の学帽に手を伸ばす。掌の動きを、光の強い目が追い、律動が弱まった。
「いるんだろ?」
鳴海の視線が、ライドウの背後を透かし見る。窓からの健全な日の光に目を細めながら、学帽に触れる。
ライドウは、伸ばされた腕を捉えた。
そしてそのまま、鳴海(あいて)の手首を口元に寄せる。
「答えろ」
鳴海のいつになく強い調子にか、仮面を思わせる美貌が、やけに人間くさい困惑の色を刷いた。
「いるんだろう、ここに」
ひくひくと、誘いこむような絶妙な動きで、鳴海は内部を犯す熱を圧迫した。そして、さらに言葉を継ごうとする。だが、果たせなかった。ライドウの掌に口を覆われたせいだった。
「気に」
戸惑いの勝る声を聞きながら、鳴海は白い掌の下で、両の口の端を引き上げた。同時に、内部を侵すものを押し出すよう下肢に力を込める。言葉半ばで、ライドウは甘い声を漏らした。歪む白皙の美貌が、鳴海の笑みを深くさせる。ぐっと眉が寄り、続きの言葉が紡がれた。
「しないでください」
言い終えると同時、片方の手で肘掛を押さえ、もう片方の手で鳴海を引き寄せ、内部をえぐる。狙ってか偶然か、その行為は鳴海の弱い場所を抉る。驚くほどに甘い声とともに、鳴海の背はきれいな弧を描いた。
獣じみた舌なめずりと、未だ未完成ながらも強靭な腕での束縛。今度は、別の意味でライドウの口元が歪む。
事務所全体が揺れ、正体不明の雑音(ノイズ)が大きく響いた。少なくとも、鳴海はそう感じた。
「うちみたいなのは暇なくらいの方が、世の中的にいいとはいえ」
ライドウが逐情の名残を懐紙で拭うに任せながら、鳴海はそうごちた。
「昼間っからこんな遊びができるのも……」
皆まで言わず、肩をすくめる。
二人がふしだらな行いに励んでいる間、呼鈴どころか、電話のベル一つ鳴ってはいない。最後に電話が鳴ったのは確か、三日前かだったか。もっともそれは、竜宮からのものだった。
抱えている事件もなければ、訪い人の予定もない。あえて言うならば、鬼の形相の大家が、帚片手にやってくる予想があるくらいだ。
「そうでもないようですよ」
探偵社の今後について、ぶつぶつと呟いていた鳴海は、静かな声に片方の眉を上げた。
何がと問おうと開きかけた口は、すぐに皮肉な笑みに形を変える。掌が、机の引き出しに伸びた。
ライドウの外衣が翻ったのと、静けさが手荒に破られたのはほぼ同時だった。
事務所の扉が破壊される轟音に、怒声。がしゃんと外套かけが倒れてあたりを巻き込む音。多人数が床を踏み鳴らす音。
そんな大騒ぎの中。鳴海の聴覚はやけにはっきりと、硝子がこすれる音を捉えていた。さらには、翻るライドウの外衣の下に、ささやかな蛍火を見る。
きぃ、と。やけに引き延ばされた時間の中、そう響いた。あえかな光の明滅。古びた管の蓋が、きりきりとまわる様、軋む音。
鳴海の掌は、机の引き出しから遅滞なく金属の塊を取り出している。
ほんの一瞬。先ほど、ライドウの精を受けたばかりの場所が、燃え立つように熱くなったような気がした。
きぃ、と。二度の音の後、微かな笑い声の気配。
続いて。
ばん、と、大きな掌が空気をたたいたような音があった。そして、一際酷く埃が舞い上がったかと思うと、総ての騒音がやむ。
鳴海は目をすがめた。
埃の舞う中、ひどく不自然な格好で固まる逞しい身体が見える。あるものは踏みつぶされたような姿勢で、指先だけをひくつかせている。あるものは、後ろ手に拘束されたみたいな格好で、肩に力を込めていた。あるものは床に横たわり、あるものは膝をつき、あるものは壁にはりつき……姿勢こそ様々だが、共通点は二つ。自らの意思で身動きが取れないこと。そして、彼らをそうする原因が、目見えないことだった。
鳴海は息を吐いた。そして、手近にいた侵入者の顔の間近に銃をつきつける。
「西洋式のあいさつは、もっと静かに門を叩くんだぜ」
怪しげな術を使う卑怯者。正々堂々と勝負しろ。絵に描いたような負け惜しみの数々。それに混ざる呻き声。
鳴海は、顔を上げている輩に見えるよう、上げてない輩に良く聞こえるよう、無骨で巨大な銃の撃鉄を引き起こした。
「何の用だ」
凶悪な笑顔を浮かべながら、心のどこかが安堵を感じていた。目の前の輩は、すべてわかりやすいごろつきだ。似たような格好ではあるものの、揃いの軍の制服ではない。得物も、おそらくはヤッパに長ドスがいいところだろう。
わかりやすい悪漢だ。お国を護るだのなんだの、そんな、壮大で抗いがたい大義名分はきっとない。気に入る気に入らない。金に女。なんて、平和なのだろう。
さぁ、と。鳴海は応えを促した。
そんな想いをか。それとも、先ほどまでの痴態をか。
嘲笑うような声を聞いた気がして、片方の頬が引き攣った。
fin.