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生まれいずる悩み

 劉瑞麗は思い悩んでいた。
 平和な昼下がり。恋人はふと思いついたように疑問を口にする。――そう、彼女、もしくは彼氏は、こういうとき、かならずふと思いついたみたいに言うものなのだ。
 そういえば、あの方はどなた? と。
 おっとりと穏やかでやさしい微笑みの下に、意思の強さと激しい情熱をもつ雛川亜柚子もそうだった。
 あの、今更なのですけど、と。すまなそうな前置きとともに彼女は言った。
「あの……ルイ先生が学園を出られるまでに、何度かおうちの近くでお見かけした方はどなたですか? ――学園の関係者の方ではなかったようですけれど」
 先生ではないのに、と。そう苦笑とともに口にしようとした言葉は、舌のうえで凍りついた。雛川の穏やかな表情の下に、けしていい加減な返答を許さない厳しさとでもいうべきものを見て取ったためだ。
 確かに彼女の言う通り、今更の話だ。数年の時間すら経ている。もっとも――彼女との間の時間と言うならば、ほとんど経過はない。
 彼女の言う、おうちの近くは、多分、おうちそのものだろう。おそらく、家から出てきた、もしくは家に入ってくるところをみたのだと思われる。深夜もしくは早朝に。
 理由はあるのだ。組織名や何かを詳しく語ることこそしていないが、雛川も瑞麗が世界的な組織のエージェントであることは知っている。天香学園には、教職ではない理由を持って在籍していた。人目をしのんで接触を持たなくてはいけない相手がいることに、何の不思議があるだろうか。
 ああ、それは多分誰それで仕事の相手だったのです、と。そう言ってしまえば、おしまいだ。少しばかり、嫉妬心が見え隠れはしているものの、雛川とて、社会人だ。多少の悶着はあったところで、それは二人の間のスパイスといった程度のものだろう。
「いつごろのことでしょう」
 瑞麗の問いに、ほんの少し雛川の口の端が上がった。
「ええと。年があけて、ルイ先生が学園をおやめになるころにも幾度か」
 だとすれば。だとすれば、雛川の問いはある意味いい機会かもしれない。
 雛川は、じっと瑞麗を見つめている。ひどく強いまなざしだった。
 瑞麗はにっこりと微笑んだ。
「ちょうどいい。奴も今日本にいます。紹介しましょう」
 朗らかな答えに、雛川は目を丸くして瑞麗を見つめた。


「やー、嫁のもらい手がないない思うてたら、まさか嫁はんをつれてくるとはなー」
 よろしくよろしくと、大げさすぎる動作で雛川の両手をつかんでふる弟の姿に、刺しておく釘が足りなかったかと瑞麗は小さく舌打ちをした。うさんくさいまでの親愛の情をふりまく男に、彼女は目を白黒させている。約束の時間の前に、首根っこをつかんで百貨店と美容院をはしごさせるという苦労をしただけのことはあり、黙っていればそれなりに見られる。にもかかわらず、一度口を開けば、このていたらく。まったくもって使えない男だ。
 そんなふうに考える瑞麗の不穏な空気に気づいたのだろうか。不肖の弟こと劉弦月はきりりと顔を引き締めてみせた。
「劉弦月です。姉がいつもお世話になっています」
 そう言ってまともに頭を下げたかと思うと、弦月は雛川に顔を寄せた。
「で。ここだけの話、ほんっとにねーちゃんに脅されてたりとかせーへん? いやもう、あの姉やから、正直心配で心配で」
 ことによったら、身体はってお助けします、と。そう、間に可愛いだなんだと雛川をほめたたえる言葉を挟んで、こそこそと囁いている。
「聞こえているぞ弦月」
 地を這うような声の郷里の言葉に、弦月はわざとらしく飛び上がった。
「い、いややわーねーちゃん、そんな怖い顔してからに。せっかくの美人が台無しやん。しわがふえるで」
「一言余計だ!」
 瑞麗の鉄拳制裁を、わざとらしい悲鳴をあげつつうけ、倒れる。瑞麗は、まるで自分がくだらないどつき漫才の登場人物にでもなったかのような気がして、眉間に深くしわを寄せた。
 姉弟のやりとりを目を丸くして見ていた雛川は、やがてふきだした。その様子に、瑞麗は困ったように何度か瞬きする。弦月は、自分の手柄だと言いたげに、胸をはった。
「やっぱ笑顔が一番美人さんやなー。ほんっと、ねーちゃん果報ものやで」
 大事にしいや、と。ひじでつつかれ、瑞麗は、雛川と弦月を交互に見た。白晰の美貌にうっすらと朱が差す。ああ、と。口中で不明瞭につぶやき目をそらす瑞麗を見、今度は弦月が目を丸くした。
「鬼の撹乱ちゅーんか? なぁ、雛川はん国語の先生やろ? こういう時、日本語やとどういうん?」
 すごいだなんだとはやしたてる弦月の後ろ頭を、瑞麗は無言で殴る。鈍い音とともに、今度は悲鳴一つあげずうずくまる弦月に、あわてて雛川は大丈夫ですかとかけよった。


 またなと振り返り振り返り去っていく弦月の後ろ姿を見送り、瑞麗は長く息をはいた。
「……騒がしい弟で申し訳ない」
 普段はもう少しマシなのだけど、と。そう言って、滞在中のホテルの部屋(スイート)の扉を閉めた。
 口を開けば、瑞麗をからかうような言葉しか出てこない。整えた髪は、かきまわしてあっという間にボサボサになった。せっかくあつらえたスーツも、途中からは上着を脱ぎ、シャツをうでまくりしで、宴会シーズンのサラリーマンのようになりはてた。ネクタイを頭にまかなかっただけ褒めてやるべきか。
 多少はまともな身内の姿を見せたかったのだけど、やはりヤツではだめか、と。似非関西弁をあやつり、できのわるい芸人のような所作ばかりの弟の首を、瑞麗は心の中で絞めた。仕事中であれば多少はまともな顔もするのだが、そんなところを雛川に見せるわけにもいかない。まったくもって、少しは落ち着いた所作というものをおぼえてもらいたいものだ。
 これでは、紹介しない方がマシだったのではないか、と。そう思いながら、ほかの身内はあんなのばかりではないのだと、そう言おうとした瑞麗の先に、雛川が口を開いた。
「楽しい弟さんですね」
「……はぁ、どうも」
 微妙な表情で言葉を濁す瑞麗に、雛川は柔らかく微笑みかけた。
「ルイ先生が少し席を外していらっしゃるときに、弦月さん、おっしゃってたんですよ」
 雛川の口調は、とても穏やかなものだった。だが、自分の目が届かないところで、あの弟が何をほざいたのかと。瑞麗の頬がひきつる。そんな瑞麗の顔を楽しそうに眺めながら、雛川は言葉を継いだ。
「大変優秀な姉ですが、なんでも一人でできるせいか、いろいろ抱え込もうとするところがある。愛想のない人間だとは思うのだけど、そのへんちょっと大目に見てやって、優しくしてやってくれ。末永くよろしく、と。そうおっしゃってました。それから――」
「それから?」
「厨房に立ち入らせるつもりなら、がんばって訓練してくれとも」
 笑いながら付け加えられた雛川の言葉に、今度、いいものでも食べさせてやるかと少し寛大になっていた気分が、やはり絞めておくしかないにあっさりと戻る。
「愛想がない、だなんて」
 雛川の柔らかなゆびさきが瑞麗の頬に触れた。
「弟さんでもご存じないことがおありになるのね」
 瑞麗は頬に触れる指先を握った。そして、軽く唇で触れる。そして、雛川の柔らかな身体を引き寄せた。
「――とても困っていらっしゃったように見えたので。もっと言い聞かせておくべきだったと後悔していました」
「いいえ、いいえ。いつもとは違ったルイ先生の顔が見られて、とても新鮮でした」
 腕の中でころころと笑う雛川を、瑞麗はぎゅっと抱きしめた。そして、髪に、耳元に、目元にと、愛しさのまま唇で触れる。
「お恥ずかしい。あなたが呆れていないといいのですが」
 人差し指で顎をとらえ上げるよう促すと、雛川は頬を染めて従った。ゆっくりと甘い唇を味わいながら、指先で耳の後ろをたどる。くすぐったそうに身を縮めながらも、雛川はけして逃れようとはしなかった。
「ですが」
 やけに冷静な声だった。瑞麗は顔をあげた。雛川は、じっと瑞麗を見ている。甘い笑顔が消えていた。
「私がお見かけしたのは、弟さんじゃないんですが」
 きゅっと瑞麗の背に回された雛川の手に力がこもったのがわかる。
 あっちか! と。かすかに、瑞麗の頬がひきつった。もちろん、やましいことは何一つない。だが。
 やましいことがあるかのような行動をとってしまったというのはわかった。
「あの、ルイ先生が、あの時、別のお仕事の最中だったということは私も知っているんです。ですが……」
 なぜ、弟さんとかなんとかといって、ごまかそうとされるのですか?
 雛川の言葉は、あくまでも柔らかい。だが、せんだってに聞いたときにくらべ、まるで芯に氷柱をもっているかのような冷たさがある。
 やましいことなどなかったのだ。あああれは同僚か弟のどちらかですと一言言っておけば。ついでに身内を紹介するなんてことをしなくとも。
 確認を怠ってしまった。痛恨のミスだった。だが確かにあの頃、出入りしていたのはほぼ弦月だったのだ。
 ――なぜ自分は、こんな余計なことをしてしまったのか。
「ねぇ、瑞麗?」
 雛川が瑞麗の背に回した腕の力がいやました。ピンク色の唇がつむぐ自らの名は、普段ならば喜ばしい
はずのものだ。だが。どういう具合に伝えればいいのか、そもそも聞いてもらえるのか。表情筋を動かすための努力をすべてつぎ込んで、瑞麗は考え続けていた。

fin.