「足りないな」
重々しく緋勇龍麻は言った。
場所は天香学園男子寮、緋勇龍麻の部屋だった。つい三十分ほど前まで、すっきりと片付いたフローリングの真ん中には、黒い正方形のテーブルがあった。今もある。ただし、少しばかり違った姿、日本人なら躊躇なく別の単語を当てはめるであろう姿で。
「そうか?」
皆守甲太郎は、そう言ってテーブルの上のミカンをひとつ手にとった。
「足りないだろう」
緋勇は首を横にふる。
「つーか、何でおれはここにいるんだ……」
葉佩九龍は哲学的思考に沈んでいた。何を好き好んで、苦手意識の大変大きな緋勇龍麻の部屋で自分はくつろいだ姿勢をとろうとしているのだろうか。これはもしかして、精神的修業の一環か、それとも何かの罠か。
「足りない」
再度つぶやいた瞬間、緋勇はミカンを盛ったカゴを凪ぎ払った。反射的に皆守はそれを受け止める。見事な反応速度だった。とはいえ。実際のところは、受け止めさせる軌跡までもを計算して、緋勇はそうしたのかもしれない。
ついで、ちゃぶだいがえしの要領でテーブルに手をかける。跳ね上がったのは、天板のみだった。
おお、と、皆守は他人事のように言った。葉佩は危ないと言いながら眉を寄せている。
跳ね上がった天板に、緋勇は絶妙の回転を与えた。くるりと空中で回転したそれは、表裏を逆にしてもとの位置に収まる。
「コタツの正しい姿といったらこれだろう!」
先ほどまでは、黒いテーブルだった。いまは、鮮やかな緑色のラシャ地が、モノトーンの薄い布団の上に乗っている。
天板が落ち着いたのを見計らい、皆守はミカンのかごをもとの場所におきなおした。そして、不思議そうに首を傾げながら、滑らかなラシャ地を撫でる。
「こっち向きだと、汚れやすいんじゃないか?」
緋勇は目を見開いて皆守を見た。
葉佩が皆守にあっさりと同意する。
緋勇の顔が葉佩の方を向く。
「……コタツをおいて最初にすべきことはなんだ」
呼吸を整え、緋勇は静かに尋ねた。
何度か瞬きし、葉佩は首を傾げた。
「なんかあるのか?」
塩を盛るとか、何か神棚にあげるとか?
「……」
そうか、うわさには聞いていたけど、コレが日本の伝統的な暖房器具かー、と。葉佩はものめずらしげに、てのひらで天板の滑らかな感触を楽しんでいる。緋勇は顔の向きを転じ、皆守を見た。皆守は、食べようとしていたみかんのふさを一つ示して見せた。
「みかんつりでもするのか?」
何だそれは。食べ物を粗末にするようでおれはあまり好きじゃない。とりあえずは針と糸を用意して。オマエもってるか? と。アットホームでのどかなゲームに対して会話する葉佩と皆守。緋勇はぎりと奥歯を食い縛った。
「違うだろう!」
ガン! と。一見力いっぱい、その実かなりの手加減をして緋勇は天板を叩いた。葉佩と皆守が会話をやめ、まじまじと緋勇を見る。
「……どうしたんだ? 緋勇」
常にない彼の激高するさまに気おされたかのように。一拍おいて、皆守は問うた。
「コタツをおいたらまずはマージャンだろう!」
おいてなくてもやるけど! 年越しや誕生日や祝祭日! そもそもこれだけ男子学生がそろってたら、私設雀荘の一つや二つあるのが当然! と。まるで酒飲みのいいわけみたいな数々を連ねて、緋勇は二人を見据えた。
ああ、と、皆守は手を打った。葉佩は不思議そうに首を傾げた。
「そもそもルールを知らない」
「ブリッジとかポーカーなら」
ああ確かに、この暖房器具の上でゲームをするのは楽しそうだなぁ。だけど、マージャンていうと、タバコ臭い小汚くて狭い雀荘でガラの悪い野郎が顔つき合わせて徹夜とか。昭和の大学生がそれで単位を落とすとか。あれ、中国のゲームじゃないのかとか。パチンコと同じで借金作ってヤクザにおいかけられるとか。
好き勝手言いながら盛り上がる二人を、緋勇は愕然とした表情で見る。
やがて。
「そんなおまえルールは知らない」
結論が出たのか、きっぱりと皆守は言い切った。葉佩は何度も頷いている。なんだか少しうれしそうだった。
「……くっ……!」
緋勇は、ポケットから携帯を取り出した。
「今から行く用意しとけ」
いくらかのやりとりの後、再度電話をかけ直す。
「今すぐ来い」
再度同様。幾人かに対し電話をかけ終えたところで、緋勇は立ち上がった。そして、おもむろに壁にかけてあるコートを手にとる。
「……緋勇?」
皆守の問いに、緋勇はまだいたのかと冷たい目を向けた。
「でかける」
今から? どこへ? と。問いかける二人を緋勇は鼻先で笑った。
「大人の楽しみだよ」
そう言って、ミカンかごを皆守に持たせ、二人を部屋からつまみ出す。部屋にカギをかけた後、緋勇は土煙舞う勢いで玄関へとダッシュする。
しばし後、こんな時間にどこ行くんだという怒鳴り声が響いた。
fin.
「諸悪の根源あるいは天国に一番近い場所」(2008年HARUコミ)収録