ホワイトクリスマスというのは、雪が降っていればいいというものではないだろう。日付はクリスマス。白いものが空から落ちてきてはいるものの、これをホワイトクリスマスというには、かなりの部分に目を瞑らなければいけない。そんな日のことだった。
霙交じりの冷たい風が吹く夜半、一人の青年がある邸宅を訪れた。
残念ですが、と。慇懃に老執事は頭を下げた。
それに対し、客人はさしてこまった顔もせず、どうももうしわけないと踵を返す。
お待ちください。
そう、老執事は言った。
客人は足を止めた。ゆっくりと振り返った。老執事はいつものように微笑を浮かべていた。
お待ちください。再度、そうくりかえされた。ほう、と、客人は呟く。
そして、向かい合う。互いに、笑みを浮かべていた。
*
阿門家の広大なエントランスでは、葉佩九龍と千貫厳十郎の二人が対峙していた。普段ならば、他の使用人が一人二人姿を見せていてもいい。
もっとも、今は夜中だった。夜分遅く申し訳ありませんといったならば、全くその通りだと言われるような時間だ。夜間外来と同じ様子であってもおかしくはない。いやむしろ、いかめしい扉は閉まったきりで、客人を迎え入れることなくともおかしくはないだろう。
だが。使用人の人数以外に、おかしなことはない。エントランスの明かりは、適度な明るさで、重厚なインテリアに暖かな彩りを加えている。老執事もまた、昼間と全くかわらぬ、すきなく整えられた姿で笑みを浮かべていた。
「これが主の命でないことは理解していただきたく存じます」
彼の両手は、黒い皮のグローブで覆われていた。なにかの調子を確かめるみたいな様子で、拳を握ると、きゅっとかすかな音が鳴る。幾度か繰り返した。
「ぼっちゃまに怒られるんじゃあないのか?」
葉佩は肩をすくめた。何の感銘も受けていないように見えた。
「それでも」
千貫は長い息を吐く。
ぴんと伸びた背筋に、常に絶えることない柔らかな笑み。常に自らの分と役割をわきまえているさまは、ロマンスグレイというにはいささか枯れすぎか。孔子は六十才にして思うがままに行動してもあるべき姿を逸脱することがなくなったという話だが、千貫はいつもそういった雰囲気を漂わせている。
ほんの少しだけ、動いたように見えた。
「やめといたほうがいい。年寄りの冷や水って言葉もある」
いつもの葉佩ならば、つたないなりの敬語で千貫に対しては接していた。年長者に示す礼儀と、本物の敬意。その二つが正しくブレンドされた態度だったはずだ。だが。
「それでも今宵は、貴方様に主の後を追わせるわけにはいかない、と。私目はそう考えたのでございます」
ゆっくりと千貫の片手が、腰の辺りをさまよう。緊張と迷いなのか、それともマジシャンの手口なのか。目を伏せた表情から読み取るは難かった。
葉佩は、小さく哂った。
「このような時は、こうでよろしいですかな」
再度、千貫はまっすぐに葉佩を見た。片眼鏡の奥の目が強い光を宿し、表情に精悍さという一筆が加わる。いつもの柔らかな微笑が消えた。
「――身の程を知るがいい若造が」
低い声が、エントランスに響く。その声が終わるか終わらないうちに、風切り音が響いた。
*
葉佩は、千貫の言葉が終わるまで待っていたわけではなかった。
挑発と同時に、左の手首が動くのを見て取るや否や、斜め後ろへと飛ぶ。
襲い掛かってきたのは、使い込まれたピックだった。
飛びながら、両の手で急所をカバーする。葉佩がアサルトベストの下に身に着けているアンダーウエアは、一山千円のスエットなどではない。防弾チョッキほどの性能はないものの、多少の刃物くらいは防げるようになっている。至近距離でこそあるものの、アイスピックの切っ先を叩き落すくらいには、十分だと思われた。
予想通り、バー九龍で見慣れたアイスピックが、喉笛に向かって飛んでくる。床に落ちる音は、毛足の長い絨毯が吸い取った。
「ぐっ……!」
両腕を降ろす間もなく、葉佩はうめき声をあげた。アイスピックを追って動いていた千貫の拳が、葉佩の腹にめりこんだためだ。
続けざまに襲い掛かってくる拳を防ぎながら、葉佩は下がった。
こつんと、背中が壁に当たる。そこで、一発。ガードはしたが、頭が揺れた。
姿勢を整える葉佩から、千貫は無表情に距離をとった。その際、身をかがめ、床に転がるアイスピックを拾い上げる。
「クソ」
血の混じった唾を吐き、葉佩は拳を握った。そこへ、再度、まっすぐにアイスピックが襲い掛かってくる。
再度襲い来たアイスピックを叩き落し、顔色を変えた。
握りやすい形状のそれの陰に隠れ、薄刃のナイフが同じ軌跡を辿ってきている!
葉佩が、アンダーウエアとグローブを注意深く身に着けていなかったならば、ぱっくりと開いた傷口をもてあます羽目になっていただろう。
腕を一振り。まっすぐに、葉佩は千貫につっこんだ。
下から顎を狙った一撃は、あっさりガードされた。だが、ほんの少し、千貫の頬が引きつった。
「ロートルが」
反対の拳を、横からたたきつけると、腕の角度が変わった。揺れただけだ。だが。
もう一度、さらに反対から一撃。真正面からの力勝負では、やはり若い葉佩に分があるということか。千貫のガードが崩れる。崩れたところにさらに反対から――と思いきや、膝が上がった。
まともに腹への一撃をうけた千貫が呻く。ガードだけではなく、完全に姿勢が崩れた。
「縁側で茶でも飲んでろ!」
がら空きの顎に、今度こそとどめの拳がめりこむ。
千貫が絨毯の上に倒れる。肩で息をしつつ、葉佩はその様子を見下ろす。ぴくりと千貫の肩が動いたかと思うと、床の上の身体が旋回する。脛を狙うそれを葉佩がかわせたのは、なかばよろめいたからだった
それでも、数歩たたらを踏んだだけで、葉佩は姿勢を立て直す。捨て身の一撃を放った千貫を、サッカーボールもかくやといった様で蹴る。
嫌な音が響いた。数十センチ移動した位置で、千貫は動きを止めた。
*
葉佩は、少し離れた位置を保ったまま、小型のハンドガンを取り出していた。
安全装置をはずす音が、やけに大きくエントランスに響く。
「千貫さん!」
葉佩が口を開きかけたところに、第三者の声が割って入る。
千貫さん、マスター、と。今更といえば今更。館の奥から、口々に叫ぶ阿門家使用人たちが飛び出してくる。
客人を迎える姿ではない。各々がむき出しの決意を表情とし、中には、モップや植木鋏を構えているものもあった。
「フリーズ」
再度、葉佩は口を開いた。ハンドガンの銃口は、当たり前のように、千貫の腹に狙いをつけている。
使用人たちの動きがとまった。
もう一度、葉佩は「フリーズ」とくりかえす。
先頭でモップを構える壮年の男の袖を、隣で拳を握っていた若い男が引いた。若い男の表情には、わかりやすい怯えが浮かんでいる。
あれは。いやそんな。モデルガン。漣のように阿門家使用人の中に広がった言葉が、動揺をもたらす。
だが。日本において、本物の銃を見たことがある人間など、ほんの一握りしかいない。実物を見たこともなければ、威力を目の当たりにしたこともない。さらに、葉佩は敷地を共有する天香学園高等学校の生徒であり、この館に迎え入れたこともある。
それらの理由が、彼らに葉佩が持つものを、モデルガンだと判断させたらしい。
動揺が収まり、下がりかけたモップが上がる。先ほどに倍する殺気が、葉佩に向けられた。
「自分が負けたら、ふくろだたきにしろとでも言ったか」
独り言のような口調で、葉佩は言った。そして、ほんの少し、指先に力がこもる。
「みなさん……下がりなさい」
うめき声とともに、床からの声があった。
「しかし千貫さん!」
千貫は、苦悶の表情で目を閉じたままだった。
葉佩はためいきをついた。そして、注意深く銃の安全装置をかけてしまいこむ。
使用人たちは、一瞬、ぽかんと口を開いた。だが、葉佩の行為を理解するにつれ、意図を図りきれないことに起因する動揺と、この有利な機会を逃すまいという決意が広がる。
「さがりなさい」
今度の指示は、もっと力強かった。
千貫のてのひらが、おそるおそる動き、葉佩に蹴られた辺りの服を掴もうとしていた。肩に腰に力が入る様子があり、身体を起こそうとしていることがわかる。
葉佩は何もしなかった。
ゆるゆるとモップや植木鋏がさがる。
千貫は、半身を起こした。
「あなた方のかなう相手ではありません。――それに、もしかするとこの方ならば、主を連れ帰って下さるやもしれません」
わざとらしく葉佩は目を見開いた。そして、ひゅうと口笛を吹いてみせる。
「あなたさまは、なぜ最初から銃をお使いにならなかった」
「下らない。本当に下らない根拠だ」
両の手を広げるパフォーマンスを行い、小さな笑い声をあげる。その後、葉佩は踵を返した。邪魔したなと口にし出口へと向かう。
ほんの一瞬、千貫の目に強い光が宿った。そして、この場にいる誰よりも強く重い殺気が放たれる。
だが。
葉佩も千貫も、それ以上の行動には出ない。
「お客様がお帰りです。扉を開けなさい」
先ほどよりもずいぶんと力強い指示に、使用人たちの先頭にいた二人が顔を見合わせる。そして、モップを投げ捨てると、エントランスの扉へと向かった。
千貫の指示に従った使用人が扉を開けるのを待っているのだろうか。葉佩は、扉の前で足を止めていた。
二人が扉を開け放つと、白い結晶がふきこんできた。葉佩がここを訪れたときよりも、ずっと風が強くなっていた。
外の寒さに躊躇するかのように、葉佩の表情が歪む。
「阿門のかみなりを首をそろえて待ってるんだな」
一息に言い切ると、葉佩は吹雪の中へと足を踏み出す。黒い後姿は、あっというまに夜闇にまぎれてしまい、ただ雪だけが残る。
最初に、葉佩の言葉を理解したのは千貫だった。おぼつかない動作で、立ち上がる。よろめく様に気づいた使用人の少女が、彼を支えようと走り寄った。
だが、千貫は、片腕で少女を制した。そして、姿勢を正すと、葉佩が姿を消した方角へと、深く頭を下げる。
ざわざわと、ほかの使用人たちがざわめき始めた。扉をあけた二人は、顔を見合わせ、千貫の様子をうかがう。指示はない。互いに頷きあうと、扉を閉めなおした。
吹き込む吹雪がなくなっても、千貫は顔をあげなかった。
「千貫さん……?」
おそるおそる、一人の先ほどの少女が声をかけた。瞬間、ぐらりと老執事の身体が傾ぐ。
細い身体を受け止めることはかなわなかった。再度硬い音をたてて倒れた千貫を囲み、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
千貫の名を呼ぶもの、医者だとかけだすもの、国家権力への連絡をすべきではないかと提案するもの。
「……葉佩さまは、主を連れて帰ると、仰いました」
荒い息の下、途切れがちな言葉に、エントランスに残っていた使用人たちが動きを止めた。
「いつでもお出迎えできるよう、支度を」
千貫の言葉に、一拍遅れて、一人が頷いた。そして、それでは足りないと思ったのか、口に出して了解を伝える。千貫の口元が緩んだ。続いて、口々に応えがあった。
「任せてください、千貫さん。ですから」
医者を迎えに行く、車を出せと言いながら、電話をかけにいっていた使用人が戻ってきた。続いて、早くベッドにと千貫の私室を確認に行った一人が走りこんでくる。
「まずは怪我の治療からお願いします。ゆっくり休んでください」
確かな言葉に、千貫の顔にいつもの慈愛に満ちた笑みが浮かぶ。
「頼みましたよ」
弱弱しく、だが確かに、千貫はそう言った。
さらに口元が動く。だが、今度の言葉を聞き取れた者はいなかった。ぼっちゃま、と。そう呟いて、彼は意識を手放した。
fin.
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