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最大多数の最大幸福

 緋勇龍麻は、雨に濡れた捨て猫のように身を震わせていた。
 如月翡翠の眉間には、くっきりと深いしわが刻まれていた。
「どけ」
 低い声だった。普段の穏やかなやあいらっしゃいとは、まるで別人だった。
 緋勇は背後をかばいながら、ぷるぷると首を横にふった。
 如月は、もう一度同じ言葉を繰り返した。そして、力強く足を踏み出す。
 きゃうんと情けない鳴き声をあげる緋勇に容赦ない一撃を加え、如月は猛然とコタツを片し始めた。

 ごめんください、これは遠いところよくいらっしゃいました。そんなやりとりの手間を省き、村雨祇孔はあいさつに対する家主の応えを待たずに中へとあがりこんだ。
 勝手知ったる他人の家。たまりばというイメージとはずいぶんと違う。だが。実情というならば、ここは明らかにある種のつながりを持った人間たちのたまりばだった。
 いつもの通りに居間に至ると、ヒマそうな蓬莱寺京一がいた。
「遅れたかい?」
「んにゃ、壬生がまだだ」
 一応は客扱いなのか、それとも調理をさせる気がないのか。蓬莱寺は、卓上コンロのガスの缶を外し、注意深く重さを確かめ、軽いかなとつぶやいていた。買ってきた方がよかったかと言いながら、村雨は着てきたコートを脱いで腰を下す。そこに、大鍋いっぱいの白菜を始めとした野菜を持った緋勇が、台所から姿をあらわした。
 村雨のあいさつに、久しぶりと返し、ちゃぶ台の近くに大鍋をおく。
「ガス、補充あった方がいいんじゃね?」
「買ってありますよ」
「コタツはもう終わりか」
 まあ、最近暖かいっちゃあ暖かいが、と。無精ヒゲを撫でながらの村雨の言葉に、緋勇と蓬莱寺は顔を見合わせた。そして、二人そろって大きく頷く。
「やっぱ鍋といったらコタツだよなー」
「そうそう。コタツとガスコンロのぬくもりってのが冬の鍋の風情ってやつっすよ」
 暖房は控えめで、と。緋勇の言葉に、蓬莱寺は、いやそっちはどうでもいいとあっさり裏切りを表明する。緋勇は、蓬莱寺に向かってちちちと人差し指を振って見せた。
「ストーブで餅とかミカンとか焼いてみたりするのと同じくらい冬の風物詩として大切に守っていくべきだと思いますよ」
「いや、ミカンはやかねーだろ」
「焼きミカンを知らない!? そんなもったいないことを言いますか村雨くんは」
 大げさな動作で驚いてみせる緋勇に、蓬莱寺が追い打ちをかける。
「俺もしらねぇよそんなもん」
「あんなにおいしいのに」
 今度作ってあげようと言う緋勇に対し、二人は顔をしかめて辞退の意を表した。
「すっぱいもんが温かいのはダメだろ」
「カキフライにレモンかけるやんかー」
「分量が全然違うだろうが」
「そう言う問題じゃないー」
「そりゃこっちのセリフだ」
 二人がかりの否定に、緋勇は小さくおいしいのにとつぶやき、がっくりうなだれる。
「……焼きミカンをデザートにコタツで鍋は冬の風物詩」
「デザート以外は賛成してやるから元気だしな、センセイ」
 ポンポンと緋勇の背を叩きながら、村雨は憐れむように言った。
「そうそう。こー、冷やできゅーっとやりながら、鍋。その後は、廊下で冷えたミカンをもってきて、それをつまみながら麻雀てのなら、俺も認めてやるって」
「……コタツでアイスまで譲歩します」
「まだ言っているのか」
 台所から、土鍋を手に現れた如月の言葉に、三人は顔をあげた。邪魔してるぜと言って差し入れを示す村雨に、如月は無言で頷いた。
「真冬ならば仕方がないとしても。ああいった人間の活動意欲を奪うものはさっさと片づけてしまうに限る」
 反論はあるか、と。如月は明らかに受け付けていない態度で言うと、土鍋を卓上コンロにおいた。続けて、蓬莱寺の手にあるガス缶を取り上げ、注意深くセットし火をつける。その姿に、蓬莱寺は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 壬生は?」
「先ほど、一時間ほど遅れると連絡があった。申し訳ないが、鍋は皆で楽しんでほしいそうだ」
「壬生くんが来ないなら、多すぎましたかねぇ」
「もともと明日の献立も考えて切ってある」
 言いきると、再度如月は立ち上がる。続いて、緋勇もまた立ち上がり、彼の後を追った。

 予告通り、きっちり一時間遅れで壬生紅葉が到着した。欠食児童による鍋をめぐる争いはひと段落したのだろう。如月家居間には、どことなくまったりとした空気が漂っていた。
 遅れて申し訳ありませんと頭を下げる壬生に、如月は少しくらいは食べるだろうと言って立ち上がる。とりあえずと差し出されるガラスの杯を受け取り、壬生は部屋の中を見回した。そして、ああと頷く。
「コタツを片づけたんですね」
 部屋の感じが違うと思ったら、と。その言葉に、小皿とハシを手に台所から戻ってきた如月が、大げさなまでに顔をしかめた。
「君もか」
 如月のおそろしくイヤそうな声に、壬生は驚いたように目を瞬かせた。横から、緋勇が同意を求めるように壬生に対して語りかける。
「コタツで鍋、そして麻雀から雑魚寝は冬の風物詩だから、片すにはまだ早いよねって」
「必ず布団を出しているだろう」
 雑魚寝とは失敬な、と。そう言って、如月は緋勇を睨む。
「……立春はずいぶん前に過ぎていますね。春一番はまだのようですが」
「スキーツアーはまだある時期だな」
「東京でスキーができるわけではない。数日前から、最高気温が二ケタになっているだろう」
 無精ヒゲを撫でながらの村雨の言葉にも、如月はきっちりと反論した。
「十度で春ってどんな修行僧」
 つか、寒の戻りなんて日本語もあるでしょう、と。緋勇の言葉に、大きく如月はため息をついた。
「ああわかった。そこまで言うのならば、貴様がコタツ周りを巣にしない、今度最高気温が十度を切ったらと言う条件で、復活させてやる。その後は、四月もしくは最高気温平均十二度まで出しておいてやる」
 やったと緋勇は勝利のばんざいをしてみせる。苦虫を噛み潰した表情で、如月はそれを睨んだ。

 数日後、雨が降り最高気温が十度を下回った。さっそくの呼びかけで、またもや如月家で鍋が企画される。
 最初から大喜びの緋勇と蓬莱寺に対してはともかく。今度は遅刻せずに現れた壬生が、つい漏らした寒い季節に鍋はいいですねの言葉に、如月が露骨にいやな顔をしたのは、おそらく被害妄想に近いものがあるだろう。

fin.

「諸悪の根源あるいは天国に一番近い場所」(2008年HARUコミ)収録