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A LuckyDay

 好きな相手と言うならば、大急ぎで取り消したくなる。恋人と言うは、首をかしげる。そんな、それなりに特別な存在感のある相手。まぁ、なんというか。あれだ。ええと。それなりの仲というやつか。大分前から、あれでそれではあったが、数日前から、何らかの合意が……とにかく、知り合いより少し違った位置にある相手と過ごすにあたり、いっしょに好きな映画を見て感想を言い合うなんていうのは、ある意味お約束すぎて恥ずかしい展開なんじゃないかと思う。そうするにやぶさかでないと思わなくもない。思わなくもないのだが。
 だが。それが出来るか否か、試すまでもなくわかりきっている場合というのも、確かに存在する。まぁ、あれだ。人それぞれ、娯楽作品というのには好みがある。ただそれだけだ。
 コーヒーを用意して、クッションの形を整える。スキップするほどじゃあない。だが、それなりに浮き立ちながら、密閉型ヘッドフォンを用意する。世界に浸る準備を整えたその時、部屋の扉がノックされた。
 数秒の逡巡の後、DVDケースを手にしたまま、部屋の扉をあけた。はたして、ノックの主は件の相手だった。ほんの少し下の位置から、およろしい目つきが睨みあげてくる。たまには満面の笑顔……いや、よそう。せんなきことだ。それに、慣れてしまえば、これはこれで味わい深い。
 どうもと小さく頭を下げる。何だどうした欲求不満か? それならそうで以下省略。などと、けしからぬことを考えていたら、タッパーが差し出された。
「ごちそうさまでした。……食べれるもの、作れるんすね」
 そういえば、しばらく前に、カレーを持たせたことを思い出す。なるほど。ついでにで良かったんだがな。
 言い草だけ聞けば、あまりの可愛らしさに、ほっぺたをつまんで思い切りひっぱってやりたくなる。だが、目をそらしながらボソボソ言う表情を見るに――これは、もしかして、精いっぱいほめているんだろうな。
「まぁな。口にあったんなら、また持っていけ」
「アンタがくれるって言うんなら、ありがたくもらいます」
 これは、ぜひ食べさせてくださいと翻訳していいんだろうか。いや、そこまでいくと、いくらなんでも過信しすぎか。
 言葉を切った後も、なんだか物言いたげだ。どうしたんだと声をかけようとしたところ、勢いよく頭を下げた。
「それだけっす。――」
 じゃあ、と。そう言おうとしたんだろうと思う。下げた頭は、戻る過程で、不自然に動きを止めた。
「うん? ――ああ。今から見ようと思ってたんだが」
 おれは、手に持ったままだったDVDのパッケージを持ち上げた。見えないわけじゃないんだろうが、やつは眉を寄せて、パッケージに顔を近づける。
「こういうの、好きなんすか?」
「――まぁな」
 知ってるか? の問いには、首を横にふった。
 なんとなく、うれしはずかしなシチュエーションが浮かぶ。とはいえ。二時間超えの長編映画だ。好きならばいいが、そうでなければ、拷問に等しいだろう。そして、好みにあうかどうかの賭けは――万馬券の確率なみに低そうだ。
「ヒマなら見るか?」
 いっしょに、と。しばらく逡巡した後、とりあえず尋ねてみた。
 こっくりと、妙に幼い動作でうなずく。
 カレーせんも用意してやることにしよう。

 あらかじめ入れてあったコーヒーのポットを傍らにおく。おかわりもこみで二人分というには、いささか少ない。が、そのあたりは冷蔵庫から出してきた牛乳のパックで補った。その隣には、景気よく開いたカレーせんのパッケージが並ぶ。クッションは客人に譲り、自分は枕で諦めた。
 ベッドを背に座りこむと、大画面とは程遠いモニタが目の前にくる。パッケージから出したディスクをパソコンに放り込み操作すると、左右のスピーカーが配給会社のロゴに合わせた音を流し始めた。
 液晶モニタとパソコンが位置を変えているあたりを、知らない家につれてこられた猫みたいにかぎまわっていたやつは、音が聞こえだしたところでモニタに向き直った。
 両手でマグカップを支え、立てたひざに顎を乗せる。こいつが非常にわかりやすいというのは、別におれがこいつの気配にやたら敏感だからというわけではないだろう。親友はともかく、現行の《役員》は、気配を消すのが下手すぎるのだという見解にそろって同意するにちがいない。
 今もそうだ。作品へとは少し違った好奇心の気配が、うるさすぎるくらいに隣から発せられている。軽薄なロゴが消え、ほんの一瞬画面が暗くなる。そして、流れ始めたのは、残念ながらまったく理解できない言語だ。世界でも複雑な部類に入る東欧の言語は、多分こいつも理解できて何語かまでだろう。
 しばらくしてから、おれは隣を盗み見た。眉を寄せて、じっと画面を注視してはいるが、楽しそうな表情ではない。ひくひくと不快げに頬が動き、瞬きの数が増える。口元のカップが、ゆっくりと傾いた。

 カラーなのに、なぜかモノクロめいた印象を与える画面。昨今のドラマや何かにくらべれば、進行はとてもゆっくりとしている。なのに、なぜか目まぐるしい。
 つくりものめいているくせに、なぜかリアルなセットの感触。抑えた表情が人形めいた印象を与える女優。淡々と進む、謎というよりは、不条理。廃墟の風景。水のイメージ。シンボリックな鏡の使い方。画面の外にまで、この世界が広がっているかのような錯覚をもたらす、独自の世界。
 展開も半ばをすぎたころ、突然肩が重くなった。
 だろうな。だから、誘おうと思っていなかったんだが――予想通りか。
 他人の楽しみを邪魔したと思っていたのかどうか知らないが、文句を言ったり逃げ出したりはしなかった。だが、眠気に勝つことまではできなかったらしい。
 安らかな寝息に、俺は口元を歪めた。手を伸ばし、髪に触れても起きる様子はない。
 ゆっくりと息を吐くと、起こさないように慎重に、頭をひざに落とす。そして、身体をひねって指先を伸ばし、ベッドから毛布を引きずり下した。
 ひざの上から、くぐもった声が聞こえる。息を詰め、動きを止める。ごそごそと身動きしたかと思うと、再び穏やかな寝息が聞こえ始めた。
 引きずり下した毛布をかけてやり、すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。えぐみばかりになりはてた液体で唇を湿し、続きへと俺は意識を戻した。
 

 ひとつひとつ、情景が積み重なっていく。穏やかな過去の風景。いるはずのない女がまとう、縫い目のない服。出てこない同僚。窓の外でうねる海。
 不安と不信を積み重ねていく独特の世界。シャトルに詰め込まれた哀しみの表情(かお)。だが、朝になると、何事もなく彼女は微笑んだ。少しずつ「正しい」存在としての精神のあり方が削られていく様のリアル。
「ん……?」
 おれは何度か瞬きをした。
 確かに単調な映画だ。だが、この肌に迫る緊張感と独特の世界は、繰り返し見るに耐えうる数少ない存在の一つだ。
 息苦しさばかりが強いクライマックス。正しい人間としての主人公の葛藤。今度は自らの手で命を絶つ彼女。だが、助かりようのない身体は、グロテスクに震え、元に戻る。ありえない情景。いや、それをいうならば、そもそもステーションに彼女が存在することがありえない。バッハの旋律が響く。
 同時に、あらがいがたい眠気に襲われる。
 ……。
 映画音楽に比べれば、ささやかすぎるほどの音量(ボリューム)の寝息が、元凶のような気がした。心地よい重みと暖かさ。こたつにもぐりこむよりも、ずっと上等なぬくもり。
 はっきり言って、映画の世界とは真逆だ。真っ向から対立している。邪魔もいいところだ。ひたれない。
 夜中に騒ぎ立てる馬鹿者ならば、再生を止めて蹴りに行けばいい。それは、ぴんと反発する、排除するべき邪魔だ。だがこれは。
 おれは、長く息を吐いた。平穏すぎる存在が、つくられた息苦しさを壊していく。
 ――とても、気持ちいい。
 色合いそのものは地味なのに、世界の中でとても鮮やかな女優が微笑む。意味のわからない静かなセリフが、子守歌に変化し(なっ)ていく。字幕の白い文字がぼやける。
 おれはあきらめて、目を閉じ、大きく息を吐いた。
 邪魔をされたはずなのに、なぜか心地よくて、口元が緩やかな弧を描く。
 映画はまだ続いている。一番見たいシーンまではあとすこしある。あの表現のために、すべては積み重ねられているのに。
 目を閉じたまま、慎重にひざの上の頭を撫でる。ぴんぴんした気持ちいい髪の感触のなかにまざる、硬いメガネのつる。
 映画音楽が遠くなり、暖かさばかりが強くなる。
 心の隅でロシアの巨匠に謝った。ぬるま湯みたいな安堵に、どっぷりと全身で浸りきる。
 そして、おれもまた、三十分ほど遅れて意識を手放した。

fin