板張りの廊下は、足先にはりつきそうに冷たかった。古い家独特のしんと沈んだ空気は、慣れてきたとはいっても、冬には辛い。やはり靴下の一つもはいてくるべきだったか。汀京也は、生理的な現象として身を震わせたところで、そう考えた。
震えながらガスコンロの前で湯が沸くのを待つ。手をかざし、青い炎で暖を取った。
どうせ数分だ。そう思っていたはずなのに、ここまでとは。
「くるかな」
てのひらをこすりあわせ、ぽつり呟いた。水の匂いも、しんとした空気も、この家の中ならば、あまりに馴染み深い気配だ。だから、そうとは気づかなかったが――これは、雪が来る?
持ってきたカップめんを眺め、しばし迷ってから冷蔵庫を見た。一つ頷くと、冷凍庫から小分けにした白飯を取り出し、レンジに放りこむ。微かに音を立て始めたヤカンに、口元が笑んだ。
レンジの金属音とほぼ同時、玄関の扉が開く音がした。そして、軽い足音を聞く。
あいかわらず芸が細かい。本当なら、足音一つ立てないほうが楽なんだろうに。
「――出かけてたんすか?」
足音は、まっすぐに近づいてきた。
台所ののれんを片手で持ち上げ、家主が顔を出す。ただいまとおかえりのやり取りの後、そう尋ねた。
「ああ。……論文か?」
「まぁ、そういうことにしておいてください」
曖昧な回答に、そうではないと分かったか、家主は肩をすくめた。
「如月くんも食べます?」
「カップヌードルシーフード味か」
「いえ、お茶漬け」
予想通り顔をしかめる家主。カップめんにポテトチップス、ファーストフードのてりやきバーガー。こういうことろは、食べ物の好みがあわない。
これは、しまっておいて、と。台所のまんなかにあるテーブルにのる白地に青文字の発泡スチロールの容器を、少し遠ざける。
暫し考える様子を見せてから、家主は頷いた。
台所を出て行く細いコートの背中。それを見送りながら、もうひとつ、冷凍庫から白飯を取り出した。
折り目正しい家主とて、手を抜くときは抜く。今がまさにそのときだった。
夜もふけて、すっかり冷え切っていた居間の暖房器具は、コタツだけ。ストーブがないわけではないのだが、火が入っていない現在、それはただのレトロな置物だった。
温まりきっていない電気コタツに足を突っ込み、白い息を吐きながらお茶漬けに手を合わせる。
さすがにこの季節、ストーブなしはきつい。半纏を着ていても寒さが身にしみた。だが、目の前のシャツに薄手のセーターなんて格好の家主は、まったくもって平気そうに見えた。
手を抜いてるんじゃなくて、単に鈍い? なんとはなしにそう考えながら、京也は最近の家主の外出時刻について口にした。
「最近、夜多いっすね」
ああ、と、如月は小さく頷く。
「夜間希望のお得意様ができてな」
「大変っすねぇ。お疲れさまです」
あとは、食事中の微かな音。黙っているからといって、話題を探して緊張するわけでもない。
しばらく後に、ごちそうさまと手を合わせる。家主もほぼおなじくらいだった。
「朝はどうするんだ?」
「起こされなければ寝てるつもりっす」
「わかった」
最低限の言葉で、最大の情報をやり取りする。
食べ終わった茶碗を、見るともなしに見下ろす。どちらもまだ、立ち上がる気配はない。
午前四時――もうすぐ、三十分。
「……最近にしても、今日は特に遅かったっすね」
「行った先で少しばかりトラブルがあってな」
どこか白っ茶けた深夜の居間。古い明かりが揺れて、白い顔に落ちる影の形を変えた。
つけやきばながらに鍛えた拳は、六年間の歳月ですっかりさびついた。
今の自分は、街でチンピラにすごまれたら、財布を置いて逃げるしかない。闘うどころか、悲鳴一つ上げられないかもしれないくらいの一般人だ。それも体育会系からははるかかなたの文科系。今の両手に似合うのは、手甲よりは、キーボードや硝子片、薄い手袋。必要なのは力強さではなくて、デリケートな細胞片を扱うことのできる繊細さ。京也には、その程度の自覚はあった。
自転車やスキーみたいに、ほんの少しの訓練で、ある程度のカンは取り戻せるかもしれない。けれど、すっかり衰えた持久力だけはどうにもならない。
そう、鍛えた拳はすっかりなまっている。けれど、そうではないものがあることも知っている。
必要以上に無表情な白い顔の中、磨き抜かれた鏃みたいな光の強い目。
静けさ。冷たさ。黒。北。水。土。丘陵。内包する。沈む。
彼(きさらぎひすい)を包む濃密なそれ。普段の彼のイメージとてかけはなれたものではない。けれど、違う。今日の彼は、そんなイメージとか印象といった穏便な言葉ではあらわせない。
あえていうなら、そのもの、だ
彼の存在に刺激されたんだろうか。さっきから気になっていた感覚が、広がる。ありもしない第三の手が、五感を超えた感覚が、新たな入力機器を繋いで祈った(PlugAndPray)みたいに中央処理装置(あたま)に処理を求める。鮮明に、なる。
雪が降り出していた。窓の外なんて見てはいなかったけれど、そのことが皮膚感覚としてわかった。コタツにつっこまれた四本の足。すっかり冷えた茶碗。その近くに投げ出されているてのひら。サーモグラフィにも似た何かが視界に重なってくる。
それが示す一つの事実。
ニュース番組や電話の声よりも確実な情報。落ち葉が詰まって、掃除が必要になった用水みたいな、淀みと、腐臭、黴の気配。今夜のできごと。
「――汀」
静かな声に、京也は曖昧な笑みを浮かべた。
「もしかして」
軽く聞こえる口調には、なっていたと思う。
でも、微かに自分の手が震えていることもわかっていた。
如月は無言で首を横に振った。
――何かが起きている? 手伝う。
問いは、宣言は、最後まで口にできなかった。いや、しなかった。
せめぎあう義務感と怯え。手の届くところにいる誰かを助けたいと思うこと。天動説を捨てて、地動説を受け入れること。
目が見えない人にとって、視覚というのはありえない世界なんだろうか。
痛みがない人もいる。
聞こえない人もいる。
たかが、五感と違った感覚。ほんの、一本だけ余計な腕。
流れ込んでくる森羅万象。大地の血液。循環する。調整する。手を伸ばす。掴む。
心霊写真みたいにチープな幻想(うそ)。
ほんの少し、踏み出すだけだ。ほんの半歩で世界は色を変える。
何かが首筋をきつく掴む。恐ろしい速さのシミュレーションが結果を脳に流し込む。否否否肯定否定。見えない流れが、そこにはないてのひらに触れる。飽和する。だが、飽和したはずのそれに逃げ場はなく、頭蓋骨の中の圧力がとめどなく上昇していく。明滅する死の一文字。
世界の入り口に立つは老陰玄武。当代の、唯一の化身。そして――守る、人。
大丈夫だ。君でなくとも、大丈夫だよ。
むきだしの神経に柔らかく触れる言葉。彼がそう口にしたことは、多分ないけれど。
しなくてもいい。君は好きに生きる権利がある。これは、義務じゃない。
しおれていく、なにか。宥めすかされる焦燥。後頭部をぎゅっと掴んでいる何かが、少しだけ柔らかくなる。頭の中一杯のスポンジが適正量に落ち着いていく。
小さく何かが叫んだ。卑怯者、と。突き刺さった爪の先から、ほんの少し血が流れる。
だけど、もう一度正視する勇気はもてない。あまりに深くて、あまりに広い。そこは、怖い。ありえない。
小さな声が、しつこくつきまとう。小さい。小さく、なる。小さく。
「汀」
もう一度、呼ばれた。
笑みを浮かべた。多分、いつものだろう。
白い手が茶碗と箸を回収する。それを見ながら、寒さに固まった身体をほぐす。
今度の笑みは、確かにいつもと同じ。
数分間をどこかの棚に放り投げて、世界はいつもの色宿す。
おやすみの挨拶をかわして、茶碗を片しにいく家主の背中を見守った。
世は総てこともなく、暁は間近でいつものように出番を待っている。
これでいいのだろうか? いや。これでいいのだろう。
小さく何かの悲鳴が聞こえる。だが。汀京也は、ごくあたりまえの人間としての自覚を強くした。
fin.