{{category novel,九龍妖魔学園紀,nolink}} !!200412240400  板張りの廊下は、足先にはりつきそうに冷たかった。古い家独特のしんと沈んだ空気は、慣れてきたとはいっても、冬には辛い。やはり靴下の一つもはいてくるべきだったか。汀京也は、生理的な現象として身を震わせたところで、そう考えた。  震えながらガスコンロの前で湯が沸くのを待つ。手をかざし、青い炎で暖を取った。  どうせ数分だ。そう思っていたはずなのに、ここまでとは。 「くるかな」  てのひらをこすりあわせ、ぽつり呟いた。水の匂いも、しんとした空気も、この家の中ならば、あまりに馴染み深い気配だ。だから、そうとは気づかなかったが――これは、雪が来る?  持ってきたカップめんを眺め、しばし迷ってから冷蔵庫を見た。一つ頷くと、冷凍庫から小分けにした白飯を取り出し、レンジに放りこむ。微かに音を立て始めたヤカンに、口元が笑んだ。  レンジの金属音とほぼ同時、玄関の扉が開く音がした。そして、軽い足音を聞く。  あいかわらず芸が細かい。本当なら、足音一つ立てないほうが楽なんだろうに。 「――出かけてたんすか?」  足音は、まっすぐに近づいてきた。  台所ののれんを片手で持ち上げ、家主が顔を出す。ただいまとおかえりのやり取りの後、そう尋ねた。 「ああ。……論文か?」 「まぁ、そういうことにしておいてください」  曖昧な回答に、そうではないと分かったか、家主は肩をすくめた。 「如月くんも食べます?」 「カップヌードルシーフード味か」 「いえ、お茶漬け」  予想通り顔をしかめる家主。カップめんにポテトチップス、ファーストフードのてりやきバーガー。こういうことろは、食べ物の好みがあわない。  これは、しまっておいて、と。台所のまんなかにあるテーブルにのる白地に青文字の発泡スチロールの容器を、少し遠ざける。  暫し考える様子を見せてから、家主は頷いた。  台所を出て行く細いコートの背中。それを見送りながら、もうひとつ、冷凍庫から白飯を取り出した。  折り目正しい家主とて、手を抜くときは抜く。今がまさにそのときだった。  夜もふけて、すっかり冷え切っていた居間の暖房器具は、コタツだけ。ストーブがないわけではないのだが、火が入っていない現在、それはただのレトロな置物だった。  温まりきっていない電気コタツに足を突っ込み、白い息を吐きながらお茶漬けに手を合わせる。  さすがにこの季節、ストーブなしはきつい。半纏を着ていても寒さが身にしみた。だが、目の前のシャツに薄手のセーターなんて格好の家主は、まったくもって平気そうに見えた。  手を抜いてるんじゃなくて、単に鈍い? なんとはなしにそう考えながら、京也は最近の家主の外出時刻について口にした。 「最近、夜多いっすね」  ああ、と、如月は小さく頷く。 「夜間希望のお得意様ができてな」 「大変っすねぇ。お疲れさまです」  あとは、食事中の微かな音。黙っているからといって、話題を探して緊張するわけでもない。  しばらく後に、ごちそうさまと手を合わせる。家主もほぼおなじくらいだった。 「朝はどうするんだ?」 「起こされなければ寝てるつもりっす」 「わかった」  最低限の言葉で、最大の情報をやり取りする。  食べ終わった茶碗を、見るともなしに見下ろす。どちらもまだ、立ち上がる気配はない。  午前四時――もうすぐ、三十分。 「……最近にしても、今日は特に遅かったっすね」 「行った先で少しばかりトラブルがあってな」  どこか白っ茶けた深夜の居間。古い明かりが揺れて、白い顔に落ちる影の形を変えた。  つけやきばながらに鍛えた拳は、六年間の歳月ですっかりさびついた。  今の自分は、街でチンピラにすごまれたら、財布を置いて逃げるしかない。闘うどころか、悲鳴一つ上げられないかもしれないくらいの一般人だ。それも体育会系からははるかかなたの文科系。今の両手に似合うのは、手甲よりは、キーボードや硝子片、薄い手袋。必要なのは力強さではなくて、デリケートな細胞片を扱うことのできる繊細さ。京也には、その程度の自覚はあった。  自転車やスキーみたいに、ほんの少しの訓練で、ある程度のカンは取り戻せるかもしれない。けれど、すっかり衰えた持久力だけはどうにもならない。  そう、鍛えた拳はすっかりなまっている。けれど、そうではないものがあることも知っている。  必要以上に無表情な白い顔の中、磨き抜かれた鏃みたいな光の強い目。  静けさ。冷たさ。黒。北。水。土。丘陵。内包する。沈む。  彼(きさらぎひすい)を包む濃密なそれ。普段の彼のイメージとてかけはなれたものではない。けれど、違う。今日の彼は、そんなイメージとか印象といった穏便な言葉ではあらわせない。  あえていうなら、そのもの、だ  彼の存在に刺激されたんだろうか。さっきから気になっていた感覚が、広がる。ありもしない第三の手が、五感を超えた感覚が、新たな入力機器を繋いで祈った(PlugAndPray)みたいに中央処理装置(あたま)に処理を求める。鮮明に、なる。  雪が降り出していた。窓の外なんて見てはいなかったけれど、そのことが皮膚感覚としてわかった。コタツにつっこまれた四本の足。すっかり冷えた茶碗。その近くに投げ出されているてのひら。サーモグラフィにも似た何かが視界に重なってくる。  それが示す一つの事実。  ニュース番組や電話の声よりも確実な情報。落ち葉が詰まって、掃除が必要になった用水みたいな、淀みと、腐臭、黴の気配。今夜のできごと。 「――汀」  静かな声に、京也は曖昧な笑みを浮かべた。 「もしかして」  軽く聞こえる口調には、なっていたと思う。  でも、微かに自分の手が震えていることもわかっていた。  如月は無言で首を横に振った。  ――何かが起きている? 手伝う。  問いは、宣言は、最後まで口にできなかった。いや、しなかった。  せめぎあう義務感と怯え。手の届くところにいる誰かを助けたいと思うこと。天動説を捨てて、地動説を受け入れること。  目が見えない人にとって、視覚というのはありえない世界なんだろうか。  痛みがない人もいる。  聞こえない人もいる。  たかが、五感と違った感覚。ほんの、一本だけ余計な腕。  流れ込んでくる森羅万象。大地の血液。循環する。調整する。手を伸ばす。掴む。  心霊写真みたいにチープな幻想(うそ)。  ほんの少し、踏み出すだけだ。ほんの半歩で世界は色を変える。  何かが首筋をきつく掴む。恐ろしい速さのシミュレーションが結果を脳に流し込む。否否否肯定否定。見えない流れが、そこにはないてのひらに触れる。飽和する。だが、飽和したはずのそれに逃げ場はなく、頭蓋骨の中の圧力がとめどなく上昇していく。明滅する死の一文字。  世界の入り口に立つは老陰玄武。当代の、唯一の化身。そして――守る、人。  大丈夫だ。君でなくとも、大丈夫だよ。  むきだしの神経に柔らかく触れる言葉。彼がそう口にしたことは、多分ないけれど。  しなくてもいい。君は好きに生きる権利がある。これは、義務じゃない。  しおれていく、なにか。宥めすかされる焦燥。後頭部をぎゅっと掴んでいる何かが、少しだけ柔らかくなる。頭の中一杯のスポンジが適正量に落ち着いていく。  小さく何かが叫んだ。卑怯者、と。突き刺さった爪の先から、ほんの少し血が流れる。  だけど、もう一度正視する勇気はもてない。あまりに深くて、あまりに広い。そこは、怖い。ありえない。  小さな声が、しつこくつきまとう。小さい。小さく、なる。小さく。 「汀」  もう一度、呼ばれた。  笑みを浮かべた。多分、いつものだろう。  白い手が茶碗と箸を回収する。それを見ながら、寒さに固まった身体をほぐす。  今度の笑みは、確かにいつもと同じ。  数分間をどこかの棚に放り投げて、世界はいつもの色宿す。  おやすみの挨拶をかわして、茶碗を片しにいく家主の背中を見守った。  世は総てこともなく、暁は間近でいつものように出番を待っている。  これでいいのだろうか? いや。これでいいのだろう。  小さく何かの悲鳴が聞こえる。だが。汀京也は、ごくあたりまえの人間としての自覚を強くした。 fin.